3/31/2012

yuko ikoma Suite for Fragile Chamber Orchestra


yuko ikoma Suite for Fragile Chamber Orchestra
2011. 11.11.released / windbell four 110

山口県, 二象舎・原田和明によるオートマタ(機械仕掛けのからくり人形)の新作シリーズ「フラジャイル室内管弦楽団」のために書かれた音楽である.

二階堂和美のうたも入っていた前作よりもずっと音そのものに寄り添った本作で, 生駒祐子は残忍なほどにシンプルな世界を提示する.
シンプルゆえに誤魔化しが効かず, 自分の中の記憶と対峙せざるをえない, 残忍さだ.

朴訥としたオルガンの音や, 空き缶, チャイム, 歯車の音….
とてもノスタルジックに響く音の出会いと別れの数々.
かつての記憶を想起させるどこか懐かしい音は, それゆえ, 今となっては子ども時代の記憶との別れ, 寂しい音として響く.

楽団がつくり出す音楽はとてもスリリングで, なにかのBGMとして聞き流すことは到底できない.
小さな楽器たちがつくり出す大きな世界.
それはもちろんアーティストの業だ.

20曲目, パバーヌのHand Xylophoneがとてもいい.
たどたどしく, のびやかに.

Suite for Fragile Chamber Orchestra ~フラジャイル室内楽団のための組曲~
esquisse

3/27/2012

ものすごくうるさくてありえないほど近い



映画「ものすごくうるさくてありえないほど近い」
スティーブン・ダルドリー監督

9.11から〇年, , 大きな喪失に区切りをつける大人たち.
それは, 空っぽの箱を埋めて父親の葬式を挙げた母親への反抗に繋がる.
もちろんそれは生きる術であるわけだけれど, 時間の流れの感じ方はとてもプライベートなものだから, 少年(息子)にとってあのときの出来事はいつまでもすぐそこにあって, 耳から離れない出来事のままだ.
たとえタイムマシンが来ないことなんてわかっているとしても, 少年は父親にもう一度会いたいと思い続けているのだった (電話を取られなかった罪悪感とともに…).

そんな息子を, 家族はそれぞれのやり方で愛する.
そっと息子を見守り続ける母親, 孫の背中を押す祖父, いつも味方の祖母, そして, 自分の最期の時に息子への言葉を残した父親….
その愛情はどれもとてもいとおしく, 切ない.

そんなたくさんの愛を突然奪ったテロという理不尽, そして喪失感.
この作品は, その切なさとやり切れなさ, そして少年を包み込むたっぷりの愛情とが同居するお話である.

なんといっても, 息子・オスカーを演じたトーマス・ホーンの演技が印象的だった.
真っ直ぐな瞳と話し方で, その意志の強さを表現していた.
その他の登場人物も, 微妙な心理を納得のやり方でそれぞれに演じ切っていた.

さて,「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」(Extremely loud and incredibly close)とはいったいなんのことだろう.
耳を塞ぎたくなるような出来事が, すぐそこで起こるかもしれないということなのだろうか.
それとも, 世界を変えること(ブランコをこぎ出すこと)はちょっとした勇気で始められる, ということなのだろうか.

いずれにしても, どんな状況にも決して負けない強さを, 少年は観るものに行動をもって示すのだった.

3/25/2012

マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙


映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」
フィリダ・ロイド監督

映画は年老いたマーガレット・サッチャーが牛乳を買いに行くシーンからはじまる.
見るからに老齢の女性は家に帰ってきて, 「牛乳が高くなった」と夫・デニスと話し始める.
でも…, 夫はもうこの世にはいないのだ.
サッチャーが話をしているのは幻の夫である.
そうして, 映画は現実と幻想を交え, その境界線を滲ませていく.

年老いたサッチャーが過去を回想する形で物語は進んでいくが, ふたつ, とても印象的なシーンがあった.

ひとつは, 1984年のIRAのビル爆破を思い出してサッチャーがこう言うシーンである.
「あの頃は何をするかが重要だった. でも, 今は力を得ることが重要になっている」と.
その言葉, 何年も先を見据え, たくさんのことを犠牲にしながらも自らの信念に従って行動してきたサッチャーの想いをみてとれる.
まだまだ女性への差別や階級社会の名残があったであろうその時代に, 「一生皿洗いをして過ごすのは嫌だ」と食料品店の娘から一国の首相へと進んでいった彼女だからこそ出て来る言葉だ.

もうひとつは, フォークランド紛争の際の米国務大臣との交渉シーン.
「戦争の経験もないのに」と揶揄されたサッチャーは, きっぱりと断言する.
「わたしには戦わなかった日は一日もなかった」と.
11年もの間 政権に居続けたサッチャーのカリスマが垣間見えるシーンである.
凛とした姿が恰好よかった.

映画の終盤, サッチャーは泣きながらも夫の幻影と決別する.
そしてラストシーンは, ティーカップを洗うサッチャーを映し出す.
かつて「皿洗いは嫌だ」と言っていたサッチャーのその姿に, 平均律の1番と序曲1812年が重なりエンドロールを迎えるのだった.

そう, 終わりに奏でられるのは前奏曲と序曲, である.
それは, 夫との決別を果たし とてつもなく寂しくも, それでも前へ進んでいこうとするサッチャー自身へのプレリュードのように響くのだった.

さて, 「ミュージック・オブ・ハート」, 「プラダを着た悪魔」と, 大好きな作品がたくさんあるメリル・ストリープ.
今回の演技も素晴らしく, 一人の女性の強さと弱さ, 成功と後悔をありありと表現してくれた.
特に, 年老いたサッチャーの演技は同じ役者が演じているとは思えないほど, 全く違う雰囲気を纏っていた.
その姿を通して, 役者という仕事にかける心意気をも改めて見せてくれたような気がする.

3/23/2012

金原ひとみ TRIP TRAP


金原ひとみ (2009). TRIP TRAP. 角川書店.

key word:旅の作り方

新井敏記はかつて, 旅はその人だけのもので人の数だけ旅がある, といった (新井敏記 (2011). 鏡の荒野. スイッチ・パブリッシング).

また, 沢木耕太郎は「旅とは何か」という問いに, それは「途上にあること」だ, といった.
さらに, 旅は終わりがあるもので, それは旅をする人が「作る」ものだ, といったのだった (沢木耕太郎 (2008). 旅する力. 新潮社., スイッチ・パブリッシング (2005). coyote, no.8. ).

旅する人 自身によって作られる, その人だけのもの.
それが旅ならば, 人生が旅に例えられるのも納得のいくことである.

そのとおり,TRIP TRAP」では主人公(マユ)の人生という旅が描かれる (と書いてしまうとちょっと恥ずかしいが).
実際に主人公は, 沼津, パリ, ハワイ, イタリア, 江ノ島, , 様々なところへ出かけるのだが, それは旅というよりはただの物理的な移動, という感じである.
その移動とは別の次元で, そこには常にどこかしら「途上感」が漂っている.

本作にはこれまでの作品のような, 読んでいてその視覚からの情報が共感覚としてこちらの体にまで影響を与えるような, 作家独特の身体描写はほとんど出てこない.
作品を支配するのはなんだか気怠い, 停滞感だ.
それが作家の狙いなのだろうか, それだけが印象的だ, といえるほど, スリリングさを欠いた気怠さ, 不安感(それは途上感に通じるもの)が心に残る.

とにかく一人で何かしなければならない状況が嫌いで, いつも彼と二人で共同責任でなければ嫌だった(:124)「私」が, ときに「あの頃に戻りたくて涙が出そうに」なりながらも (205), 「とうとう何かをできる人間になりたいと思うように」(:210)なっていく過程を, 作家は私小説風に描く.

子どもを保育園に預けてやってきた江ノ島での, ナンパされた男とのやり取りが印象に残る.
「私はもう帰る。間に合わないや」という主人公に, 男は「何に?」といい, こう続ける.

「間に合わないものなんてある?」
「何それ。そういうの、止めてよ」
「ていうか、間に合わなきゃいけないものなんてあるの?」

そこで主人公は思う.
「私はただ、間に会いたいだけだ。」と (253).

それまで社会とのつながりを避け, 責任を避けてきた主人公が, 母親になって遂に, 自らそれに所属し責任を果たしたいと思う.

でも, その変化を母になったことのみに起因させるのでは, あまりにつまらない.
その後ろ側にある気怠さと奇妙な安堵感のようなものが, 途上であるということ, 旅のうえにあるということなのだろう.
それはどこか, 無いもの強請りで, だからこそ人間っぽくもある姿だと思う.

彼女は旅の途上にある.
そこには多くのTRAPが仕掛けられている.
その罠をくぐり抜けてきた彼女は、以前の彼女とは違う彼女となっている.
そして, それ(旅の前と後とではまったく違う光景が見える)もまた, 旅の特徴である

最後に, 旅に関連してもうひとつ.
「ガンジス河でバタフライ」(幻冬舎, 2000)で たかのてるこはいう.
毎日のかけがえのなさを知っているひとはみな, 旅人だ, (:「おわりに」).

そうするとやはり, 主人公であるマユは旅人であり, 旅の途中にいる


TRIP TRAP トリップ・トラップ
旅する力―深夜特急ノート
coyote(コヨーテ)No.8 特集・沢木耕太郎「深夜特急ノート」旅がはじまる時
ガンジス河でバタフライ

3/20/2012

川上未映子 ぜんぶの後に残るもの


川上未映子 (2011). ぜんぶの後に残るもの. 新潮社.

key words:日々の暮らし, リズム

週刊新潮の連載「オモロマンティック・ボム!」と日経新聞の連載「プロムナード」を集めたエッセイ集.
本書には小説家が思ったり考えたりしたこと, 気づいたことが, あの特徴的なリズムで書かれている (読点で区切りながらテンポよく次々と紡がれていく文章).

連載は去年の3を前後して書かれているので, 本書には震災についての文章も含まれている.

そのなかでも, まえがきとして書かれた本書のタイトルと同じ「ぜんぶの後に残るもの」という文章が印象的だった.
ある日 南三陸町のホテルの浴場で目にした母子の「なんというのか生命力としか言いようのない強さ」やその輝きにふれ (2), 「町の記憶は匂いや光や言葉とともに、あの筆舌に尽くし難い圧倒的な生命力と分かちがたくわたしのなかにある。津波にも地震にも奪いきれないものが、わたしたちのなかにはある。」(:3)と川上は書く.

それと同時に, あとがきで小説家は正直にこうも書く.

「けれどもまだ全然、なにかが致命的に足りないような気がしてる。これがなんであるのかを知るには、もっとたくさんの時間が必要なのだとは思うのだけれど。」(:189)と.

五官を使って書かれた小説家の文章のその先へとイメージを膨らませるのは, 今度はもしかすると読み手の五官なのかもしれない.
(それが五官を使って生み出された自らの声, 記憶, イメージなのであれば)きっとそれは何にも奪い去られることはないだろう.
そんなことを思った一冊だった.
そして, そんなことを読み手に考えさせる小説家という仕事は, やはりとても素敵なものだと思うのだ.

ぜんぶの後に残るもの