5/27/2012

武満徹作曲賞本選演奏会2012


COMPOSIUM 20122012年度武満徹作曲賞本選演奏会
2012.05.27 / 東京オペラシティコンサートホール

今年度の武満徹作曲賞本選では, 「オーケストラという西洋で熟成した編成をいかに独自な観点から見直し, 自分の楽器として創り変えているか, という批評軸を持って選考した」という細川俊夫によって選ばれた4人の作曲家の作品が演奏された.

1曲目は木村真人「私はただ, 寂黙なる宇宙に眠りたい」.
1st2ndヴァイオリンはそれぞれ2人ずつさらに5つのパートに分けられ, 厚く複雑な響きが出現する.
静かな海の中を漂うスチールパンが印象的な作品だった.
弦楽器の放物線や, 湧き上がるハーモニクスの響きも美しかった.
(スコアで指示されていたのは弦楽器が2階・3階席に分かれた配置だったのだが, 叶わなかったようだ. 上空からの響きも聴いてみたかった)

2曲目は薄井史織「笑い」.
悶える管楽器(マウスピースや楽器で唸る)と, 吹き出す弦楽器.
終始 複雑な演奏が続き, どことなく奇を衒い過ぎている感じがしてしまう (実はちょっと飽きてしまったのだけど…).
終盤 大きな笑い声(本物!)が立ち上がると, 管楽器は再びマウスピースの悶えに戻った.
そしてEs Clはどんどん分解されて小さくなっていって…, 可愛らしく鳴いて終わりを迎えるのだった.
(スコアでは舌の図入りで, 笑い声のシラブル(発声法)まで指定されていた!)

3曲目はフェデリコ・ガルデッラ「Mano d'erba.
中盤, 弦を引き継いで始まったアルトフルートの独白と, そこから紡ぎされ数々のアンサンブルが美しかった.
静かななか包み込まれる感じがあり, そしてそれが, 遥か遠くの出来事であるかのような遠近感もあるのだった.
何度か吹き抜ける風(管楽器のブレス)が印象的だった.

4曲目はイオアニス・アンゲラキス「une oeuvre pour l'echo des reves (2).
前の3曲に比べて小さな編成である.
しかしオケの一人ひとりがソロで動き出すことで, アンサンブルは豊かに厚みを増していく作品となっていた.
チェレスタやヴァイブのキラキラで始まった曲は, 色彩の変化に富んだまま進んで行く.
リレーされる弦楽器の弓の動きや, 弦を直接マレットでトレモロされるピアノなど, 視覚的にも見ていて面白かった.
そして何より, ドラマチックな弦の重厚なハーモニーが心地よかった (vibratoが無ければどこか武満・地平線のドーリアのようだ).

15時に始まったコンサートは, 4曲の演奏が終了すると17時前だった (この後 休憩(審査)を挟んで結果発表だったのだが, ここで会場を後に…).
個人的には1曲目と4曲目がいいと思った.
対照的な2曲ではあったが, それぞれ表現したい世界が独自のもので, 音楽や技法にも必然性があると感じたからだ.
1曲目の細密画のような音響も, 4曲目のキラキラと華やかな響きも, どちらもそれぞれに優雅なものだった.

それにしても, この大曲たちをあの集中力で演奏したオーケストラの素晴らしさ (十束尚宏+東フィル).
あんなふうに, 自分の書いた音楽が立ち現れる瞬間に居合わせられるということは, きっと作曲家にとって至福の時なのだと思う.
とても楽しい演奏会だった.

(写真は日本橋・お多幸のとうめし. 甘じょっぱいおでん出汁が染み込んだ豆腐と茶飯が美味かった!)

5/25/2012

川内倫子展


川内倫子展:照度 あめつち 影を見る
2012.05.12 - 07.16 / 東京都写真美術館

写美へ, 川内倫子展を観に行く.

今日は写真家本人と内藤礼さんとの対談もあった.
なんともまったりとして愉快なトークセッションだった.

写真展は, 正方形の画面が印象的な《Illuminance》(照度)の作品群から始まる.
キラキラと切り取られた色とりどりの風景が印象的.
(ただ, 切り取られた四角い日常(からの新発見)がどことなく誘導的過ぎる気もしてしまって, なんだかちょっと欲張りにも感じられた部分もあった…)

今回の展示では映像作品も上映されていた (映像に関しては, 対談でフロアからの質問に答えて, それは「(釣りに例えると)リールを巻いている感じ」なんだと語っていた).
同じ映像がタイミングをズラしながら左右に投影されるのだが, 「映像は写真よりも生のイメージに近い」と本人がいっていたとおり, 2つの場面は偶然の出会いを果たすことで互いにより生き生きとなるようだった.

それに対して, 写真という「静」の不思議.
連続した時間から一部をカシャリと切り取られたその場面は, 半分その脈絡を変化させられて, 私たちの前にまた新しい出来事として提示される.
その仕事をする写真家の術.
改めてその観察眼はすごいと思う.

Illuminance》のほか, 新作である《あめつち》でも映像作品が展示された.
《あめつち》は阿蘇の野焼きなどが収められた大型写真のシリーズである.
Illuminance》とはまた違い, 非日常の光景が非日常性を纏ったまま壮大に捉えられる作品たち.
野生の光景, 長い時間続いている地球の時間が, そこでは提示されているようだった.

同じ展示室で上映されていた《影を見る》は, 渡り鳥の群舞を撮影した映像作品.
《あめつち》とはまた違う地球の姿を淡々と捉える.
振り返れば, そこには静かに燃えて行く《あめつち》の映像.
燃えて行く山と, 海の上を悠々と舞う鳥の群れ.
写真家が観ている地球は壮大だ.

5/24/2012

細川俊夫の音楽


COMPOSIUM 2012:細川俊夫の音楽
2012.05.24 / 東京オペラシティコンサートホール

客電が落ち2階・パイプオルガンの前にライトが灯ると, 白い衣装を纏った宮田まゆみさんが登場した.

1曲目「光に満ちた息のように:笙のための(2002)」は, 次々と差し込んでくる光のなか, ゆっくりと深呼吸をするような音楽.
ホール天井に四角く灯るライトの下, なんとも幻想的な雰囲気でコンサートは幕を開けた.

オーケストラが登場して, 続く2曲目は「夢を織る:オーケストラのための(2010)」.
弦の長いB音の靄に, 夏の光のようなパーカッションがキラキラと降り注ぐ.
次第に渦巻いていく流れと, 次々に高速で過ぎ去っていくものたち.
厚い弦楽器の響きが美しかった.

休憩を挟んで3曲目は, 再び笙の独奏による「さくら:オットー・トーメック博士の80歳の誕生日に:笙のための(2008)」.
昨日を想い出しながら一人静かに見上げるさくら.
ベースラインにひっそりと現れるさくらのメロディーは, 静かに散っていく花びらのようだ.
5度の響きは実際に吹いているのか倍音なのか, まるで分からない.
ピアノで弾けば濁ってしまうような音程も, 笙は全てを包み込んで優しく薫らせた.

コンサート最後に演奏されたのは「星のない夜:四季へのレクイエム:ソプラノ, メゾソプラノ, 2人の語り手, 混声合唱とオーケストラのための(2010)」.
アンサンブルや独奏, 独唱, 語りなどを含んだ9の楽章からなる, 50分を越える大作である.
1楽章(ゲオルク・トラークルの詩による混声合唱とオーケストラのための「冬に」)は寒い冬の風を表す合唱団の息の音から始まった.
冷たい風に鈴が揺れる.
囁く合唱.
そこに干渉するコントラバスのクラスター.
まるで映画を観ているかのような世界観に, 最初からドキっとする.
ゆっくりと旋回するアルトフルートの独奏(2楽章:アルト・フルート独奏のための「間奏曲1」)を挟んで, 3楽章(二人の語り手, 混声合唱, そしてオーケストラのための「ドレスデンの墓標」)では男声による語り(ドレスデン空襲の目撃者による証言)が加わる.
日本語による語りだったのだが, 言葉よりも音楽の方がリアルだという不思議.
淡々と語られる体験と, 感情的なオーケストラ (オケはしばしば語りを掻き消すほどの大音量になる).
途中からは女声による語りも加わった.
重なる二人の語りから, ところどころ聴こえてくる恐ろしい情景.
しかしそれらも全て金管の強烈なファンファーレに掻き消されてしまう.
圧倒的な世界が提示されたあとに続く4楽章(ゲオルク・トラークルの詩による二人のソプラノ独唱[一人はメゾ・ソプラノ]とオーケストラのための「春に」)では, ソプラノとメゾソプラノによる独白のような哀しいうたが奏でられる.
語りとコーラス, 吐息(あるいは話すことと歌うこととの間の声)を織り交ぜて立ち上がった5楽章(ゲオルク・トラークルの詩による混声合唱とオーケストラのための「夏」)を経て, 6楽章(三人の打楽器奏者のための「間奏曲2」)では打楽器によるアンサンブルが奏でられた.
それはそれは静かに始まったアンサンブルは, 徐々に近づいて来て, みる間に鋭く破戒的な音楽になった.
7楽章(メゾ・ソプラノ独唱あるいは子どもの声のための「広島の墓標」)はコントラバス・ソロによるピチカートから.
ここでは原子爆弾を経験した広島の小学生の詩が, ドイツ語によって歌われた.
声に滲むオーケストラが切ない.
音楽は終盤を迎え, 8楽章(ゲルショム・ショーレムの詩「天使の挨拶」にもとづくソプラノ独唱, 二本のトランペット, 打楽器のための「天使の歌」)ではヒステリックなソプラノが, 3階席のエコーのトランペット・トロンボーンとともに天使の挨拶をうたう.
そして最後の9楽章(ゲオルク・トラークルの詩による混声合唱とオーケストラのための「浄められた秋」)では, 1楽章を想わせるとても綺麗で静かな響きで終わりを迎えるのだった.

なんといっても「星のない夜」が力強かったが, 「夢を織る」の静かに漂うような響きも印象的だった.
そんなに大きな編成ではないのに, それでも聴こえて来るあの響きの多層さ・多彩さはなんだろうか.
日本の庭をゆっくりと歩いているような心地よさがそこにはあった.
また, 笙の独奏がオケとオケの間に挟まれ, まるで耳をリセットされるかのような構成も心地よかった.

さて, コンポージアムは日曜日の作曲賞本選演奏会へと続く.

5/19/2012

100年インタビュー 小澤征爾 指揮者を語る


100年インタビュー制作班 (2012). 小澤征爾 指揮者を語る:音楽と表現. PHP研究所.

key words:指揮, サイトウ・キネン・オーケストラ

本書は, NHK BSハイビジョンで放送された番組「100年インタビュー/指揮者 小澤征爾」をもとに原稿をつくり, 単行本化したものだという.
NHKによる構成的で誘導的な内容ではあるものの, 指揮者・小澤征爾が語る言葉は経験に裏打ちされていて, とても共感できるものだった.

斎藤秀雄に教わった演奏法や表現法, 音楽の語法などを共有できていること(:66)や, プロオケには珍しく分奏をすること(:77)など, 小澤はサイトウ・キネンのエピソードを多く語る.
そして作品の裏に何があるのかを読むことが演奏家にとっての役目だとした斎藤秀雄の言葉を紹介し, それが「僕たち、斎藤先生の弟子たちの宝になっている」(:85)という.

さらに, 音楽をするにあたって大切なことは解釈した人の人間性が出て来ることであって (95), そのためにはたくさんの時間をかけて勉強しなければならない(:103)という.
そうして出会う音楽家同士の人間性をインバイト(118-119)し, 合わせていくのが指揮者の役割なのだ, とも.

一方, 年齢を重ねたことによる音楽に対する変化については, こう語る.

「ピタッと合って、だけど深みの度合いがないよりも、もしかすると合わないかもしれないけれども深みが感じられる、そっちのほうが満足感が得られるんだね、それを聴いている人は。」(:137

「年齢を重ねることを無駄には使っていない」という小澤だが, その音楽にも当然, それまで積み重ねた時間が影響を与えているというわけである.
病気療養の経過が気になるが, 積み重ねられた76歳の音楽を, 是非また聴いてみたいと思っている.

小澤征爾 指揮者を語る (100年インタビュー)

5/13/2012

pina


映画「pina ピナ・バウシュ:踊り続けるいのち」
ヴィム・ヴェンダース監督

2006年の春, 国立劇場でヴッパタール舞踊団の「カフェ・ミュラー」と「春の祭典」を観た.
それが, 舞台上で観た最初で最後のピナのダンスだった.
あのとき, 白い衣装を纏って静かに踊っていたピナ・バウシュ (「カフェ・ミュラー」).
ヒステリーとノスタルジー(何故かそう感じたのを覚えている)が危うい関係で共存する作品において, 彼女はその橋渡しをするかのごとくニュートラルで透明な存在感で舞台上にいた.
これといって大きな振りをするわけではないのに, そこに存在するのとしないのとでは舞台が全然違うものとなる.
そのことがなんだか衝撃的で, 印象に残ったのだった.

あの衝撃を, まさかもう一度 感じることができるとは….
映画「pina」を観て, 一人6年前へとタイムスリップしていた.

3Dで撮られた映画は, 驚くほどの臨場感で観る者に迫って来る (実は初・3D映画だったのだが, 正直驚いた).
大勢でのユニゾンが近づいて来る迫力は, スクリーンを忘れさせるほどだ.

「舞踊にとって空間は、魚にとっての水と同じです。3Dなら、空間を描き出すことができる。」

228日付の朝日でそう語っていたヴィム・ヴェンダース.
まさにこの映画では, 空間やその広がりが撮られている.
ものすごい想像力と創造力である.
改めて, 映画監督の頭の中というのは一体どうなっているんだ…, そんなことを思ってしまう.

映画は, 作品(「春の祭典」「カフェ・ミュラー」「コンタクトホーフ」「フルムーン」の4つ)と, 団員によるピナとのエピソードの独白, そしてダンサーのソロパフォーマンスを織り交ぜながら進んで行く.
圧巻なのは, 4つの作品を通じて浮かび上がるソロの繊細さとtuttiの壮大さだ.
それはまるで音楽のよう.
人間としての存在そのものを踊っているダンサーの姿に, すっかり見とれていた.

作品制作にあたって, ピナはダンサーに100にものぼる様々な質問をするのだという.
その質問に, ダンサーたちは自分の経験とイメージ, つまりは人生そのものを総動員して答えることになる.
それぞれのダンサーが生きてきたすべてが, そこには詰まっているのだ.
そのやりとりを通じて, ピナの作品は作られていく.
そこに, 観る者をがっしり掴んで揺さぶるあの作品たちの秘密があるのだろう.

「踊りなさい、自らを見失わないように」

ピナの最後の言葉が響いている.

5/05/2012

瀧本哲史 武器としての決断思考



瀧本哲史 (2011). 武器としての決断思考. 星海社.

key words:ディベート, 決断思考

「客観的に決断するための思考法」(:16)であるディベートをもとにした決断思考を, 「武器として」身に付けられるようにまとめたのが本書だという.
「武器」に瀧本が拘る理由は, それが「使ってなんぼ」(:30)だからである.
なるほど, 本書では実際のディベート事例をもとにしたその使い方がわかりやすく解説されている.

ディベート思考の根本にあるのは, 「基本的に正しいことはなんだかよくわからないから, 議論を通して「いまの最善解」を考えて行こうよ」(:46)というものである.
だから, 瀧本は議論においては絶対に正しい意見を言わなければならないという思いこみが強い日本人は, まずはこのスタンスを確認しなければならない, とする.

そして本書は, 論題の設定の仕方(=「○○すべきか否か」, と結論が出るものにすること)やメリット・デメリットの3条件の必要性 (=それぞれ内因性・重要性・解決性/発生過程・深刻性・固有性), 反論の仕方=メリット・デメリットの3条件に対して行うこと)などを分かりやすく説明していく.
さらに, ①主張に根拠がある, ②根拠が反論にさらされている, ③根拠が反論に耐えた, 3条件を兼ね揃えている「正しい主張」を議論において展開していくことが重要だとする (158).

そんなにページは多くないが, 問題集として解き進めるにはボリュームたっぷりのものである.
ディベートの方法論としての内容はとても分かりやすい. 
また, 「なぜ「学ぶ」必要があるのか?」と題した本論前のガイダンスも印象的だった.

変化に対応しながら, そのときどきにしっかりと自分で考え決断していくこと.
そのためにも, 学び, 考え, 決断し…, その積み重ねが大切だ.