1/30/2018

磯崎憲一郎 往古来今


磯崎憲一郎 (2013). 往古来今. 文芸春秋.

key words:オオウミガラス, 力士

タイトルどおり時間の流れを行ったり来たりする, どこかミニシアター系の映画のような物語が5つ収められた短編集 (淡々とした情景描写や説明(のようなもの)の蓄積がそう思わせるのか…).
時間や空間を飛躍しても, それがあまりに自然なので, 読んでいるときは違和感がない.
しかし, ページを読み進めていくと, 宙に浮いている感じが少しずつ積もっていく.
綴られる文章も独特だ.
句点が来るべきところが読点で次々と繫げられていくので, 息つく暇もなく, 読み手にはなんともいえない切迫感が与えられるのだった.

「過去の話」と「見張りの男」, そして「あとがき」が面白い.

あとがきで著者はこう書く.
「ビートルズで言うところの『ビートルズ・フォー・セール』や『ラバー・ソウル』に位置するような作品を、自分は書く時期に来ているように思えてならなかった。じっさいにはこの連作を書いている最中はただ、段差や転調を作者の意図として書かずにいかに前に進めるか、どこまで小説に忠実でいられるか、だけを考えていたように思う」(:189

誰か違う人の日常を代わりに味わったような物語だった.

(米沢市・心那やさんでいただいた「山形ちば吉そば膳」. 米沢市南原の農家さん(ちばさん)が作っているお蕎麦で, 自然栽培, 無肥料・無農薬で育てられたお蕎麦なんだそうです美味しくてぺろりといただきました. 揚げ出し豆腐も, 蕎麦湯も美味しかったです. そして…, 今度の日曜日に迫った「THIS IS US 36歳、これから」(海外ドラマ)の最終回が気になっています(笑)…)


1/28/2018

Kenichiro Nishihara Sincerely


Kenichiro Nishihara Sincerely
2016.12.14 / UPRC-015

かなり久しぶりに聴いた西原健一郎の音楽.
想像していた音とは違って, 打ち込みがジャカジャカ… (う~ん, 記憶の中にあったイメージとは結構違う…).
1曲目「our love feat. mabanua」と7曲目「shining light feat. Muhammad lqbal (From ikkubaru)」が気持ちいい。
冒頭のピアノがcool8曲目「sincerely」も素敵.

(福島市・椏久里さんのエルドベアタルト (イチゴのタルト). お土産にクロワッサン(お店で焼いているそう)もいただいてきました)


1/21/2018

大久保賢 黄昏の調べ


大久保賢 (2016). 黄昏の調べ:現代音楽の行方. 春秋社.

key words:「霧」(ドビュッシー), 「音響」を構成する要素としての「運動」(54), 「音の雲」の様態 (184), 「瓶入りの手紙」(:224

本書は, 「「現代音楽のどうしようもない不人気」を端緒に、そうした音楽のありようを読み解いていこうとするもの」(:2)である.

1章(芸術の精神からの「現代音楽」の誕生 現代音楽とは何か)では, 現代音楽の作曲家が「芸術家たる彼らが常に独創的であらねばならなかった」(:23)ために, 「人々から愛されることの極めて少ない「孤高の調べ」を書くべく運命づけられていた」(:22-23)ことが述べられる.
また, 本書ではたとえばドビュッシーが「現代」音楽の作曲家として取り上げられるのだが, 現代音楽とクラシック音楽との分かれ目を「調性」の有無によって線引きすることが確認される (35).

2章(昨日から今日へ 現代音楽の興亡Ⅰ:第二次大戦まで)では, 「調性からの離脱」と素材の自由化」の二つの事柄に焦点を当てて, この時期の作曲家と作品の特徴がまとめられる (38).
前者の作曲家として取り上げられるのはシェーンベルクやドビュッシー(「和声の機能を無効化」した(:52))であり, 後者がバルトークやストラビンスキーだ.

3章(ファウストゥス博士の仕事場 現代音楽の詩学)では「〈構成〉という営み」(:70)をキーワードとして, 現代音楽の作曲のありようの変化がまとめられる.

4章(すばらしき新世界 現代音楽の興亡Ⅱ:戦後~六〇年代まで)では, 「響き/テクスチュア」, 「ミュージック・コンクレート/電子音楽」, 「引用/コラージュ」, 「反復技法」などをキーワードにこの時期の音楽についてまとめられる.
シェーンベルクのもとで学んでいた「ケージが「偶然性」に到った経緯」(:99)などもあわせて紹介される.
(ライヒらのミニマルミュージックに対して「反復音楽」や「反復技法」といった言葉を用いた方が適切であるとする主張(:117)は面白かった)

5章(聴けるものと聴けないもの 現代音楽の感性学)では, 「聴取の解釈学」(=「作品」という枠組みの中での音楽の理解, 従来の聴き方)と「聴取の詩学」(=「作品」という枠組みからの創造的自由, 聴くことによって芸術的生産が行なわれる)(:141-144)をキーワードに論が展開される.
そして, オルテガ(やアンセルメ)の言葉を引いて「聴き手は「内」を顧みる暇などなく、ひたすら「外」の音を凝視することになる」(オルテガ, アンセルメ)(:130)新しい音楽においては, 「新しい」聴き方が生まれ, それによって現代音楽やクラシックは批判的に受け取られることになることが指摘される (148).

6章(宴のあと 現代音楽の興亡Ⅲ:七〇年代~世紀末まで)では, 「全盛期を過ぎた現代音楽の姿」(:同)がレビューされる.
この時期に見られる「単純さへの回帰」(:155)について筆者は, 「現代音楽、すなわち、過去を振り捨てて常に前へ前へと進んできた音楽が、ある面で過去への回帰を示したという点が肝心なのだ」(:156)と指摘する.
さらに, 複雑さを希求するファーニホウなどの作品(:160)や引用やコラージュのもつ面白さを引き出したハンス・ツェンダーなどの作品 (162-163), 「美しきノイズ」を追い求めたノーノらの作品 (168), 音響解析による響きの構成を拠り所とする(:174)グリゼーらスペクトル楽派の作品が紹介される.

7章(非人間的な、あまりに非人間的な 現代音楽演奏の現象学)では, 演奏不可能(なほど難解・超人的)な音楽を「それらしく弾くこと」の意味が検討される.
そして, 「演奏者がそれまでにクラシック音楽で習得した(中略)身体の運動パターンでは対応でき」ず, 「新しい作品を手がけるたびに、その都度(中略)、その音のありようをきちんと読み取り、身体に覚えこまさなければならない」(:181)といった難しさや, 「調性音楽とは異なり、現代音楽の楽譜ではその解読コードが読み手の間で必ずしも共有されているとは限らない」(:186)といた難しさ(「「楽譜を現実の音にする」ことは、多かれ少なかれ、作曲者が「書かなかったことを付け加える」ことを伴うもの」(:同)である)が現代音楽にはあることが指摘される.
また, 現代音楽における演奏者と作曲家との協同作業についても論じられる.

最後の第8章(芸術の些か耐えられない重さ 現代音楽の行方)では, 現代音楽の今後について述べられる.
著者は, 「「新しさ」や「独創性」を何よりも重んじ、その追求に明け暮れた現代音楽だが、そうした音楽が「現代」を標榜できる時代はすでに終わった」(:202)とする.
それと同時に, 「七〇年代以降の現代音楽」には, 「「業界」の中で話題となり、あるいは、多少はその外でも注目を浴びた作品はあれども、そこには先立つ時期の作品ほどの衝撃はない」(:205)ことを指摘する.
これらの状況を整理したのちに, 筆者は「「現代音楽」を脱して「現代の音楽」へと向かうには「芸術であることの程度を少しばかり下げる(言い換えれば、縛りを緩める)こと」(:208)を提案するのだった.
そして, 作曲家は「受け手のことをほとんど顧みないような音楽を書き、やがて現れるはずの真の理解者とやらに向けた「瓶入りの手紙」などにするのではなく、眼前の人たちに向けてボールを投げかけ、その結果に向き合うことが大切」だ(:224)と指摘するのだった.

現代音楽の流れを大きくつかむには良書である.
あとがきで筆者自身も指摘するように, 日本の現代音楽についても次作が望まれる.

(昨日から酒田に来ています. 写真はお昼に「day bay day」(以前みつばちカフェがあった場所)でいただいた季節のおまかせランチ. 揚げたてのコロッケと酒粕感たっぷりの厚揚げと芋がらの煮物が最高でした. そしてお味噌汁が美味しかった! もうひとつの写真は酒田に来たらやっぱり買ってしまう, 清水製パンのフルーツサンド. 今日は買えました! 昨日はル・モンドで洋食屋さんのナポリタン&ハンバーグをいただいたのですが, 酒田は美味しいお店がたくさんあって嬉しくなります)


1/07/2018

佐々木敦  ニッポンの音楽


佐々木敦 (2014). ニッポンの音楽. 講談社.

key wordsJポップ以前, Jポップ以降, テン年代, 「リスナー型ミュージシャン」

本書は, 「広い意味での「日本のポピュラー音楽の歴史」を、われわれが普段なにげなく使っている「Jポップ」という言葉が登場する「以前」と「以後」に、大きく二分割して論じ」 (3-4), 「いま現在の「ニッポンの音楽」が、どうしてこのような姿になっているのか、その理由や原因があるとするならば、どこに淵源があり、いかなる経緯を経てそうなったのか、そして、ならば「ニッポンの音楽」は、今後は変わってゆくことになるのか、これから先の未来に向かって、この国の「音楽」の担い手と受け手たちは、これからどうしてゆくべきなのか、どんな道があり得るのか、ということ」(:8)について考えた本だという.
この議論の前提として, 著者には「「Jポップ」なるものが、六〇年代末に胚胎され、二十年の歳月を経て、八〇年代末に「言葉=概念」として誕生し、いつのまにか世の中にあまねく行き渡って、ほとんどこの国の音楽そのものを覆い尽くしたあげくに、そこからまた二十年を経たゼロ年代の末ごろに、いちおうの役割を終えた」(:5)という意識がある.

第一部「Jポップ以前」第一章「はっぴいえんどの物語」では, 彼らの「あからさまに非=政治的」(:22)な態度や, 「物語もなければ主題もな」く, 淡々とした情景描写のもと醸し出される「雰囲気」を重視する日本語の世界(:24)などについて書かれる.
第二章「YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の物語」では, 電子音を駆使した彼らの特徴(「テクノ・オリエンタリズム」(:90)の標榜と「逆輸入」(:100)のイメージ戦略)と, デビューから「散開」を経て「再生」に至る歴史がその時代背景とともにまとめられる.
第一章や第二章を読むと, なんとなくしか知らなかった人物や出来事たちが自分の中で繋がって行くようで、面白かった.
日本の音楽シーンにこんな時代があったとは, さぞスリリングだったのではないかと思う.

「~幕間の物語(インタールード)「Jポップ」の誕生~」(いまだ続いている「J回帰」などについてまとめられる)を経て, 第二部「Jポップ以後」第三章「渋谷系と小室系の物語」では, まず「九〇年代の半ばくらいまでに人気を博した」「「リスナー型ミュージシャン」の完成形」(:149)であり, 「当時のバンドブームに対する反動であり、挑戦だった」(:174)渋谷系の音楽について, フリッパーズ・ギターとピチカート・ファイヴを例に述べられる.
続いて, 「オールインワン型」のプロデュース(:212)を特徴とする小室哲哉の仕事とその異常なフィーバー(:223)や凋落について述べられる.
第四章「中田ヤスタカの物語」では, 著者が「「オールインワン型プロデューサー」の完成形」(:245)とよぶ中田ヤスタカ(Perfume きゃりーぱみゅぱみゅ などをトータル・プロデュース)について述べられる.
そして結論的なまとめとして, 「内」(日本)が(目標であったはずの)「外」(海外)を孕むようになり, 「「現在」に「過去」が内包され」(:280)るようになった いま, Jポップは終わりを迎えた(:281-282)と著者は言うのだった (ところで, 「ニッポンの音楽」と本書における「Jポップ」がどう相違するのかは最後までよく分からなかった).

もちろんこれは佐々木によるひとつの歴史の見方で, 音楽史の見方は人の数だけあるのだろう.
読み物として面白く読めた一冊だった.

(写真は喜多方・つきとおひさまでいただいた やさいたっぷりキーマカレー (辛口・大盛!). りんごとさつまいものキャラメルチーズケーキも濃厚で美味しく, どちらもペロリといただきました. そしてミルクフランス(自家製いちご練乳入り)をお土産に(食べてばっかり)…)



1/04/2018

志水宏吉 「つながり格差」が学力格差を生む


志水宏吉 (2014). 「つながり格差」が学力格差を生む. 亜紀書房.

key words:「つながり格差」,「社会関係資本」,「力のある学校」

筆者が援用する「つながり格差」仮説とは, 「離婚率の低さに示されるような家庭・家族と子どもとのつながり、持ち家率の高さにあらわれるような地域・近隣社会と子どものつながり、不登校率の低さに結びつくような学校・教師と子どもとのつながりが、それぞれに豊かな地域の子どもたちの学力は高い。それに対して、それらのつながりが脅かされている地域の子どもたちの学力は相対的に低い」(:17)というものである.
50年前に学力格差を説明した「都鄙格差」(都市といなかの生活環境の圧倒的な「格差」)では説明できない学力格差が生まれている (16). というのである.

序章(「つながり格差」の発見)では, 上記のような問題の背景が説明されたのちに, ピアジェとヴィゴツキーの学習感について確認され, 著者が圧倒的にヴィゴツキーの学習感(「「できる・できない」は所与ではなく、環境との相互作用によって結果的にもたらされるものである」(:24)といった学習感)が好きであることが述べられる.

1章(学力格差とはなにか)では, 「学力低下」が「実際には学力格差の拡大によってもたらされている」こと(:50)などが述べられる.

2章(なぜ学力格差が生じるのか)ではバーンステインの言語コード論やブルデューの「文化資本」概念, コールマンの学力形成と社会関係資本についての考察, オグフのジョブシーリング論などについて確認されたのち, 学力格差に影響を与える「家庭的要素は、その家庭に備わっている経済資本・文化資本・社会関係資本の3つに大別することができる」ことが述べられる.
そして, 「学力格差を是正するうえでの人間関係の積極的意義」(:115)について述べられ, 本書が問題にしているのがまさにこの点であることが指摘される (116).

3章(「つながり格差」の主張:社会関係資本と学力)では, データをもとにした詳細な議論がなされる.
筆者は, 2008年度に実施した家庭環境と学力との関係調査(政令指定都市にある小学校100校の6年生とその保護者を対象としたもの)の結果から, 経済資本と子どもの社会関係資本とは関連がない(:129)ことを指摘する.
これは, 都市部では「家庭の経済力と子どもの「つながり」とは関係しない」ということであり, 「家庭の経済をうんぬんしなくても、「つながり」を増やしていくことは十分可能であることが示唆される」(:130)ということだとう.
さらに, 「経済資本」「親の社会関係資本」「文化資本」の3つの要因が, いずれも独立して子どもの学力にポジティブな影響を与えている(:同)ことを指摘する.
つまり, 「たとえ家庭が経済的に豊かでなくても、保護者の学歴が高くなくても、子どもを取り巻く家庭・学校・地域での人間関係が豊かなものになっていれば、その子の学力はかなりの程度高いものとなる可能性が強いということである」(131).
「秋田・福井の子がなぜできるのか?」, それは「地域・学校・家庭のつながりのなかで, 子どもたちが安心感・安堵感をもって生活しており, 家族や豊かな自然, 地域社会とのふれあいがあるからだ (132), ということである.
そこで, 筆者の興味は「つながりの再構築」(:154)へと向かっていく.

4章(学校の力を探る:「効果のある学校」論)では, まずは欧米の「効果のある学校」研究の系譜がレヴューされる.
そして, 日本(大阪)における「効果のある学校」では子どもたちの学力分布が「2こぶ化」していない(:167)現状をうけ, 日本版「効果のある学校」の特徴が7つにまとめられる (171-177).
さらに, 現場の教師の声を受けて「効果のある学校」という呼び方を「力のある学校」に変えたこと(:180)などが述べられるのだった.

最後の章である5章(学力格差克服のための政策的努力)では, 大阪と福井の対照的な状況を紹介しながら, 「教育行政の役割」(:200)について検討される.
まず, 前半ではイギリスの教育政策事例が紹介される.
それを受けて後半では日本の現状が振り返られるのだが, 「新自由主義の論理のみで押してくる橋本市長の手法は、サッチャーのものにきわめて類似している。「結果を出すためには、多少の血が無かれても仕方がない」「抵抗勢力は蹴散らすのみ」。こうした政策のおかげで、大阪の現場・教師たちは悪戦苦闘を余儀なくされている。」(:236-237)ことなどが指摘されるのだった.
また, PISA2012の結果を受けて, 「日本風のやり方(=みんなでがんばる)で国際学力テストの結果が回復してきたということは、私たち日本人の「自力」を物語っている。」(:234)ことが述べられたり, 「求められているのは、集団的な努力によって子どもたち全体の学力アップを図るという日本的特質に、「しんどい層」に焦点をあて、そこに集中的に予算やエネルギーを投下して引き上げを図るというイギリスのニューレイバーの視点を組み合わせることであり」, それは「かつて大阪を中心とする関西で、同和教育のなかで育まれてきたものときわめて近い」こと(:235)などが指摘されるのだった.

あとがきでは, 著者の興味が「「学校の力」を十二分に発揮させる「行政の力」「政策の力」への着目へと、移行しつつある」(:240)ことが述べられ, 本書は閉じられるのだった.
今後の研究成果も大変気になる.

(写真は河北町・といやの肉そばプラスミニかつ丼. 甘い肉そばも, カレー風味のタレのかつ丼も, どちらも美味しかったです)