西川美和 (2015). 永い言い訳. 文芸春秋.
key words:命あるからこそという現実, 手紙
津村啓というペンネームを持つ作家・衣笠幸夫(さちお)は, 美容師として働く妻・夏子とうまくいっていなかった.
かつて, 売れない作家時代に彼を食べさせてきた夏子は, 幸夫を「完全に私の手中に」ある(:24)「可愛い小さな犬のようだ」(:25)と思っていたところがあった.
幸夫が売れっ子の作家となった今, 「私は私の生きている意味を、すっかり見失った」(:同)というのが, 夏子の正直な気持ちだったのだ.
そんな妻・夏子を, 幸夫は突然のバス事故で失うことになる.
その事故の会見場で幸夫は, 涙も流すことが出来ずどこか冷めている自分とは対照的に, 気性荒く暴れ, 感情を露わにする男と出会う.
その男が, (大宮) 陽一だった.
妻同士が高校の同級生だった二人は偶然に出会い, 言葉を交わすこととなる.
そこから, 幸夫, 陽一とその二人の子, 4人による奇妙な生活が始まることとなる.
物語は中盤, 大宮家の面々に触れて変わっていく幸夫と, 明るさを取り戻した大宮家の3人の束の間の平和を描く.
だが, その時間も永くは続かない.
大宮家と仲睦まじい時間を過ごしている姿を捉えたテレビドキュメンタリーを観た出版社編集者からの辛辣な言葉(「津村先生。貴方の今には人を引きつける葛藤がない。」(:226)とテレビの感想を書き, 葛藤を, 悲劇を書いてください, と綴る手紙)や, 大宮家と仲よくなる科学館のインストラクター・鏑木優子の存在などから, 大宮家と幸夫の生活は次第に崩れていく.
その様子はまさに坂道を転げ落ちていくかのようで, 現実感がたっぷりあって切なかった.
もとの明るさに戻ったと思っていた(思い込もうとしていた)生活が, 見せかけの仮面を剥がされ再び崩れてしまったことで, 思い詰めた陽一は出張先でデリヘル譲とトラブルを起こす.
山梨県警に逮捕された陽一を迎えに行く途中, 幸夫が真平(小学6年生になる陽一の息子)にこう言う場面がある.
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「大丈夫だ、真ちゃん。みんな、生きてりゃ色々思うもの。汚いことも、口に出来ないようなひどいことだって。だからって、思ったことがいちいち現実になったりするわけじゃない。ぼくらはね、そんなに自分の思う通りには世界を動かせないよ。だからもう自分を責めなくていい。だけど、自分を大事に思ってくれる人を、簡単に手放しちゃいけない。みくびったり、おとしめたりしちゃいけない。そうしないと、ぼくみたいになる。ぼくみたいに、愛していいひとが、誰も居ない人生になる。簡単に、離れるわけないと思ってても、離れる時は、一瞬だ。そうでしょう?」(:287)
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それは取りも直さず, 自分自身へ言い聞かせている言葉なのだが, それまで幸夫が考えてきたことが詰め込まれた, 切実な言葉だった.
この言葉がとても印象的だった.
物語はラスト, 幸夫が亡き妻へ宛てた長い手紙を読ませる.
そこで西川美和は, 幸夫にこんな言葉を語らせるのだ.
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愛すべき日々に愛することを怠ったことの、代償は小さくはない。別の人を代わりにまた愛せばいいというわけでもない。色んな人との出会いや共生は、喪失を癒し、用事を増やし、新たな希望や、再生への力を与えてくれる。喪失の克服はしかし、多忙さや、笑いのうちには決して完遂されない。これからも俺の人生は、ずっと君への悔恨と背徳の念に支配され続けるだろう。こころのうちで謝ったって、それを赦してくれる君のことばは聞こえて来ない。そっちでたとえ君がどんなに俺をののしろうが同情しようが、あいにくそれも、俺には届かないよ。人間死んだら、それまでさ。俺たちはふたりとも、生きている時間というものを舐めてたね。(:304)
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作家は, 人間の心理のようなものをじっと見つめて捉え, こちら側へ静かに, でも力強く差し出してくる.
たしかに, 妻がこの世からいなくなった今となっては, それは言い訳なのかもしれない.
でも, その手紙は, 妻との時間をこれからも生きていく幸夫の愛情たっぷりなラブレターだ.
失ってから気づいたこととはいえ, 惜しむべくはそれを彼女へ伝えられなかったことだ….
そう強く思わせる手紙だった.
西川美和は, 受け手(読み手)の心の襞を静かになぞるアーティストだ.
(映画「ゆれる」を観たときもそうだったが)読み終わって, ぼ~っとしている自分がいた.
間違いなく傑作だと思うのだが, この本の何がそう思わせるのか整理できず, 人に薦めるにもどこか自分の日記を見せるようで(全く違うはずなのに)なんだか躊躇われる…, そんな物語だった.
しばらくは漂ってみたい.
(米沢市にある小野川温泉, 今夜はゲンジボタルを5匹ほど見つけました. 今年は蛍も例年よりずっと早いようです)