鈴木茂ほか編 (2011). アルテス01. アルテスパブリッシング.
key words:音, 音楽, 鳴り響く空気の振動
骨太な書き手による文章がたくさん収められている.
震災以降の音楽について書かれた雑誌で, こんなにも安心して読めるものがあっただろうか. 書き手は実に冷静で, そのスタンスもシンプルだ.
印象的な文章が多数あるが, 中でも岡田暁生×吉岡洋×三輪眞弘らのシンポジウム(2011年7月@京都芸術センター)のまとめと, 佐々木敦の文章が印象的だった.
シンポジウム「3.11 芸術の運命」で提起される問題は, つまりは「音楽はなにかの役に立つのか?」「音楽家にはなにができるのか?」(:4)といったことだ.
その問いを書き下ろす形で, 3人の論者が改めて主張する.
岡田暁生は「芸術はなおも「頑張る物語」を語り得るか」と題した文章で, 「使い古された「頑張るおなはし」にしがみつく」(:37)ことしかできない, 頼るべき物語が他に何も無い自分たちに愕然としてしまう, という (その理由を岡田は, ポストモダン思想の「輸入」が日本ではうまくいかなかったからではないか, と推測する (:40)).
吉岡洋は「死者のまなざしの中にみずからを置くこと」と題した文章で, 「問題の単純化による「正義」の暴走(「迷い、ためらい、反省を伴」わないまま「われわれは騙されていた」と単純になされる叫び)」を恐ろしいとし, 「現実に直面してオロオロしながら頭と身体を動かしているほうが、ずっと意味のあることである」(:43)とする.
(類似する議論は, シンポジウムの内容を踏まえた太田純貴の「それでもなお、ためらうこと:”hesitation”と/の芸術」においてもなされる. 太田は「Yes/Noで強制的に回答を求める問いが増殖」(:81)し, 「語彙や言説が一種の停止状態に追いやられていること」が問題だとする. そして, それらの状況に対して敢えて「ためらってみること」= hesitation(:87)の有用性を説く)
三輪眞弘は「電気エネルギーはすでにわれわれの身体の一部である:中部電力芸術宣言について」と題した文章で, その宣言の全部を公開する (:50-51).
そこに綴られているのは, 電力なしには何もすることができないと自覚している, まさに現在のアーティストの言葉である (一方, シンポジウムの討論で三輪は, 芸術は「奉納」であるとし, 「その場に居合わせるというのが芸術だ」(:73)という. なるほどなぁ. IAMASでの活動も素敵だ).
一方, 佐々木敦は特別寄稿として「「音楽に何ができるか」と問う必要などまったくない」(:100-104)とする文章を書く.
「そもそも芸術と呼ばれるものは、別の何かのために何事かをする(べき)ものなのだろうか、という根本的な疑問がある」(:101)と正直にいう佐々木は, その疑問に「僕の考えでは、芸術とは本質的に、有用性というか、役に立つかどうかという審判ではかられるものではい。はっきり言えば、芸術とは、人間にとって、あってもなくてもいいものなのであり、だが、あったらあったで、時としていいことがありもする、というものなのだと僕は思っている。」(:同)という. そして, もともと何かの役に立つことを目指してはいなかった芸術が「あの日以降」(:102)いったい何ができるのかと急に問う行為は, 「一種のパフォーマンスなのではないか」(:103)と斬り捨てる.
短い文章だが, 共感できる言葉が並ぶ.
さて, 「頑張ろうニッポン」のメッセージにも, 「響け!復興のハーモニー」のスローガンのもとに開催されるコンサートにも, もう既に僕らはうんざりしている.
一方で, そんなふうに肩ひじ張ることはしなくても, そのままの自然体で, その場に居合わせるものをフっと温かくする音楽がある. 率直にいって今, 包まれたいのはそんな音だ.
ではそれらの音の背後にはいったいどんな秘密があるのか.
もちろん, そんなことは考えなくてもいいのかもしれないのだけれど .
アルテス Vol.1