古市憲寿 (2011). 絶望の国の幸福な若者たち. 講談社.
key words:若者言説, 幸せの価値観
「なぜなら、日本の若者は幸せだからです」(:7)
著者はそう始める.
そして, 「若者に広まっているのは、もっと身近な人々との関係や、小さな幸せを大切にする価値観である」(:13)とし, それは, 「今日よりも明日が良くなる」なんて思わない, 「成熟した現代の社会に、ふさわしい生き方」(:同) が根底にある「新しい幸せ」(不安はあるけど, 今はまぁまぁ幸せ)だとする.
古市は「若者」像は多様であり, それらのすべてを一括りに定義することはできないとしたうえで, 若者(と世代論)をめぐる言説の歴史, 現代の若者言説と実際, 現代の若者行動(ワールドカップに盛り上がる若者たちや震災ボランティアへ出かける若者たち)に注目していく.
しかし, 読み進めながらも, 色んなところで立ち止まってしまう.
読み物としては面白いけれども, やはり違和感があるのだ.
たとえば第二章で古市は(若者はどんどん内向きになっていてけしからんと語る「大人たち」に対して)「過去と比べても「社会志向」の若者はすごく増えている」(:73)とは反論する.
しかしそこで古市が援用するデータは, 「国を愛する気持ち」についての質問から始まる, かなりバイアスがかかった「内閣府による調査」(「社会意識に関する世論調査」, 平成23年1月)の結果である (ところで, この手の不思議な調査は, OECDの幸福度調査をはじめ多数ある…). しかも, 調査に対する20代の回収率は約40%と他の世代よりも低く, 果たしてこの調査がどれだけ有用なのかは少し疑問である (古市は全体を通してこのデータを多用する).
内閣府の調査(この調査は調査実施主体が内閣府であることを提示したうえで実施される面接調査である)に進んで協力する40%の若者が社会志向であっても, 不思議はないだろう (ちょっと乱暴な言い方だけれども…).
本当に若者は社会志向で幸せなのだと, このデータからいえるのだろうか (さらにいえば, 本論中にたびたび出て来るコンテクストがさっぱり分からないインタビューも信頼性がどのくらいあるのか正直分からない…).
また, 震災と若者行動を扱った第六章では, 自分探し(承認の獲得)と震災ボランティアを関連付けようとする.
社会志向なのに実際に動き出すことができなかった若者たちにとって, 震災は待望の「コミットする対象」(:202)であり, 「被災地はカンボジアと機能的に等価な非日常」(:同)だ, とする…. 本当にそうだろうか?
ワールドカップの応援(ニホンブーム)と震災ボランティアは, 同じ文脈で説明できるものなのだろうか?
古市はあえて乱暴に語っているのだろうが (「これだから若者は…」と「大人たち」が呟くのを狙うかのごとく…), そんな気持ちが多くの人をボランティアに動かしたとはやはり思えない.
先が見えない不安の中, 身近なコミュニティに所属することで承認を得て, 自分は幸せだと暗示をかける.
さて, 果たしてそれでどこまでやっていけるのだろう. それでもやっぱり, 今が幸せだから未来のことは考えない, というのだろうか.
「幸福な階級社会」(:260)を甘んじて受け入れるというのだろうか.
そんな若者たちばかりだとは, やはり思えないのだ (古市がいうように, 若者は多様だ…, という結論になってしまうのだろうか).
絶望の国の幸福な若者たち