12/30/2011

the cabs 回帰する呼吸


the cabs 回帰する呼吸
2011.12.14.released / ZNR-116

前作「一番はじめの出来事」に続き残響recordからリリースされたミニアルバム (残響のwebを見たらKUDANZの「無神論」(←不思議なワルツだった)に続く新譜も1月にリリースされるようだ).

The Cabsbavoの首藤義勝, guvoの高橋國光, drの中村一太の3.
201110, 仙台megarocksで聴いたのが最初だったが, 「二月の兵隊」の感覚は衝撃的だった.
拍子を自由自在に行き来し, 2フロントのvocalを操るかのごとくinitiativeをとるドラム.

そのリズム感は2枚目も健在だ.
変拍子に乗り, まるで天使と悪魔のようなvocal2人.  
一見ねじれの位置にいて全く関係無いように見えるが, でもこの天使と悪魔は共犯関係にある.
そのバランス感覚, 遠近感がいい (それがなければたた奇を衒っただけの「若者バンド」になっていたかもしれない).

1曲目「キェルツェの螺旋」から, 3人の楽器プレーヤーとしての実力もよく分かる.
ドラムもベースもギターも, 超絶技巧.

轟音と共に圧倒的に駆け抜けたかと思うと, 次の瞬間にはピタっとクールダウンし, 空気をガラリと変える.
この冷静と情熱のどろどろと煮込まれた感じがとてもいい.

回帰する呼吸
一番はじめの出来事
無神論

12/23/2011

青山真治 あじまぁのウタ

  
青山真治 (2003). あじまぁのウタ.

青山真治監督の「あじまぁのウタ」を観た.
りんけんバンドのヴォーカル, 上原知子を追ったドキュメンタリー映画である.
2003年に山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映されたのだが, その時は観ることができなかった作品だ.

映画は, りんけんバンドのライヴ映像と, 夫でありバンドのリーダーでもある照屋林賢とのラジオ収録やレコーディング風景の, 大きく2つで構成されている.
それだけ, である.
これといった特徴的なカメラワークや編集もなければ, インタビューもメインでない.
ただじっと, 上原のうたう姿を, 語る言葉を(ときにはガラス越しに)撮り続けている (それがある意味 特徴的なカメラワークなのだが).
 
どんなときでも, 決して飾らない, 自然体.
日常生活の延長線上にうたがあるかのような雰囲気だ.
リラックスしたレコーディングやラジオ収録の光景を見れば誰もがそう思うだろう (ふたりの空気感がとてもいい).
しかし, そんな見た目とは真逆に, 「うたうこと」に対する覚悟が上原の口からは語られる.
 
ライヴがあるたびに引退を決意する.
うたなんてもう絶対うたわない.
 
上原はそう思うのだという.
うたうときには「水を飲むこと」にさえも神経を使い, ライヴを無事に終えられるたびに心の底から感謝をする.
上原にとってうたうということは, そんな覚悟の経験である.
映画会社の予告編では「癒しと喜びの讃歌」として語られてしまう「あじまぁのウタ」だが (「あじまぁ」とは「交わる, 交差点」(山形国際ドキュメンタリー映画祭実行委員会 (2003). 琉球電影列伝 : 75)の意味), 本作にはそんなステレオタイプには還元されない, 上原のうたに向かう真摯な姿が描かれている.

映画の中盤, いとこが集団就職で沖縄を発つときに, おばあがうたったという「だんじゅかりゆし」の話が出て来る.
10歳のときに聴いたそのうたが今も最高のうただ, という上原.
そのシーンがとても印象的だった.
話して語る以上に, うたで語ってきた文化がある沖縄.
そんな文化の中で育った上原がうたううたには, もちろん, 沖縄(の文化や歴史)が滲み出る.
彼女には, それを負うことなく, 自分の表現として信じうたい続けていく覚悟がある.
淡々と撮られる映像にもかかわらずわたしたちを魅入らせるそれは, きっとうたい手の心意気そのものなのだろう.
 
あじまぁのウタ [DVD]

12/18/2011

円城塔 これはペンです


円城塔 (2011). これはペンです. 新潮社.

key words:ペン,

まるで哲学書のように, 何度も何度も同じところを読み返す (ふと「コップとコッペパンとペン」(福永信)を思い出したが, 「コッペパン」がそうであるところの 闇の中のマインドマップ的連想ゲーム(方向感覚が掴めないまま, 関係があるのか無いのかも分からないまま拡大していく地図)のような性格は本書にはない. 外に外にと拡がっていくのではなく, その反対に内に内にと突き詰めていく, そんなイメージだ).

「叔父は文字だ。文字通り。」(7)

この一文から始まる表題作「これはペンです」で, 姪である「わたし」は, 文字である叔父が果たして誰なのかを探り, 文字である叔父を記すための道具を探す.

叔父は, 論文の「自動生成。機械生成。機械で生成された論文を学術誌に投稿しては、それらが掲載されたのち種を明かす論文を出」す仕事をした人だ (10).
別の言い方をすれば,「言葉を用いて、言葉を書いた」(15)人である.

本作は叔父をめぐる話であるから, 当然言葉についての話になる.
その記述がとても爽快でドキッとする.

たとえばこんな具合だ.

「わたしたちの言葉は個別に誂えられており、わたしたちの言葉はそのくせ通じる。そのくせ通じているように思えてしまう (41-42).

叔父は世界中の様々なところから, わたしに様々な手紙を送って寄こす.
たとえばそれは「電子顕微鏡でなければ見えないような、分子を並べて描いた極微の手紙や、高分子で記号を編み上げてみた手紙」(53-54)だ.
わたしはそんな叔父からの手紙を大学の先生やコンピュータの知能を借りて解読していく.

そして, 自分の考えや行動を丁寧に自分で説明しながら, わたしの物語は語られていく.
わたしが磁石を鍋で熱する場面があるが (26-28), その描写はものすごく細だ.
とても細でとても小説っぽい (), そんな部分がところどころにポロっと出て来るので, ギャグなのか真面目なのか, 全く分からなくなる.
不思議な文章だ.

そして最後に, わたしは叔父の正体へと辿り着く.

「叔父という存在とは、叔父を部分として含む何かの種類の非正規的な研究活動名だったらしいし、今もそうして活動している。」 (86-87).

…さて, これは大真面目にナンセンスな, 驚くべき小説である (笑).
結局 叔父は誰で, そして叔父から理不尽に可愛がられるわたしは果たして何者なのか….

そうだ, 叔父は文字だった.

(「目覚めると、今日もわたしだ。」(95)という一文で始まるもうひとつの話「良い夜を持っている」(「巨大な街を丸ごと覚え込むような特殊な記憶力を持つ父」(109)を巡る話. ちなみにこの話にもタイプボールが登場する)も, 最高にcrazyで最高にcooool!)

これはペンです

12/09/2011

アルテス01


鈴木茂ほか編 (2011). アルテス01. アルテスパブリッシング.

key words:音, 音楽, 鳴り響く空気の振動

骨太な書き手による文章がたくさんめられている.
震災以降の音楽について書かれた雑誌で, こんなにも安心して読めるものがあっただろうか.
書き手は実に冷静で, そのスタンスもシンプルだ.

印象的な文章が多数あるが, 中でも岡田暁生×吉岡洋×三輪眞弘らのシンポジウム(20117月@京都芸術センター)のまとめと, 佐々木敦の文章が印象的だった.

シンポジウム「3.11 術の運命」で提起される問題は, つまりは「音楽はなにかの役に立つのか?」「音楽家にはなにができるのか?」(:4)といったことだ.
その問いを書き下ろす形で, 3人の論者が改めて主張する.

岡田暁生は「芸術はなおも「頑張る物語」を語り得るか」と題した文章で, 「使い古された「頑張るおなはし」にしがみつく」(:37)ことしかできない, 頼るべき物語が他に何も無い自分たちに愕然としてしまう, という (その理由を岡田は, ポストモダン思想の「輸入」が日本ではうまくいかなかったからではないか, と推測する (40)).

吉岡洋は「死者のまなざしの中にみずからを置くこと」と題した文章で, 「問題の単純化による「正義」の暴走(「迷い、ためらい、反省を伴」わないまま「われわれは騙されていた」と単純になされる叫び)」を恐ろしいとし, 「現実に直面してオロオロしながら頭と身体を動かしているほうが、ずっと意味のあることである」(:43)とする.
(類似する議論は, シンポジウムの内容を踏まえた太田純貴の「それでもなお、ためらうこと:”hesitation”と/の芸術」においてもなされる. 太田は「YesNoで強制的に回答を求める問いが増殖」(:81)し, 「語彙や言説が一種の停止状態に追いやられていること」が問題だとする. そして, それらの状況に対して敢えて「ためらってみること」= hesitation(:87)の有用性を説く)

三輪眞弘は「電気エネルギーはすでにわれわれの身体の一部である:中部電力芸術宣言について」と題した文章で, その宣言の全部を公開する (50-51).
そこに綴られているのは, 電力なしには何もすることができないと自覚している, まさに現在のアーティストの言葉である (一方, シンポジウムの討論で三輪は, 芸術は「奉納」であるとし, 「その場に居合わせるというのが芸術だ」(:73)という. なるほどなぁ. IAMASでの活動も素敵だ).

一方, 佐々木敦は特別寄稿として「「音楽に何ができるか」と問う必要などまったくない」(:100-104)とする文章を書く.
「そもそも芸術と呼ばれるものは、別の何かのために何事かをする(べき)ものなのだろうか、という根本的な疑問がある」(:101)と正直にいう佐々木は, その疑問に「僕の考えでは、芸術とは本質的に、有用性というか、役に立つかどうかという審判ではかられるものではい。はっきり言えば、芸術とは、人間にとって、あってもなくてもいいものなのであり、だが、あったらあったで、時としていいことがありもする、というものなのだと僕は思っている。」(:同)という.
そして, もともと何かの役に立つことを目指してはいなかった芸術が「あの日以降」(:102)いったい何ができるのかと急に問う行為は, 「一種のパフォーマンスなのではないか」(:103)と斬り捨てる.
短い文章だが, 共感できる言葉が並ぶ.

さて, 「頑張ろうニッポン」のメッセージにも, 「響け!復興のハーモニー」のスローガンのもとに開催されるコンサートにも, もう既に僕らはうんざりしている.
一方で, そんなふうに肩ひじ張ることはしなくても, そのままの自然体で, その場に居合わせるものをフっと温かくする音楽がある.
率直にいって今, 包まれたいのはそんな音だ.
ではそれらの音の背後にはいったいどんな秘密があるのか.
もちろん, そんなことは考えなくてもいいのかもしれないのだけれど .

アルテス Vol.1

12/05/2011

中田裕二 ECOLE DE ROMANTISME


中田裕二 ECOLE DE ROMANTISME
2011.11.23.released / WPCL-11011

仙台・タワーレコードのインストアライヴに行く.

「最近の日本は高音圧の音楽ばかりだから, もっと重心の低い, あたたかい音楽をつくりたかった」

中田はそう言う.
こんなにも生々しいうたをうたうヴォーカリストだというのに, なんでキザなヤツにならないのか?
答えはその言葉にあったのかもしれない, , そう思った.

「チャゲアスがすごい好き」だったという椿屋・中田(「音楽と人」に掲載されたものをまとめたインタビュー集(金光裕史 (2011). 群青 椿屋四重奏. 音楽と人:41)より)が, 「自分を架空の誰かに置き換えて書いてた言葉を、自分の言葉にしてみた」というのは「CARNIVAL (同:141), 「他人を気にすることをやめて素直になった」というのは「孤独のカンパネラを鳴らせ」(同:181)だった.
椿屋としての最後の楽曲となった「マテリアル」では, その楽曲のテンポの速さを前に進む力として見せた.
ただゆったりとしたバラードにはしないところが中田らしいなぁと思ったのを覚えている.

中田が歌ううたには, それがどんなにエッジが効いた音楽であったとしても, じんわりとしたあたたかさがある.

椿屋四重奏のときもソロ活動をしていた中田だが (CARNIVAL」のDVDには「これはいつか椿屋の曲になるのか, ならないのかよく分かんないですけどやってみます」と「リバースのカード」をうたう中田が収録されている), 今回のソロアルバムはそのあたたかさがさらにじんわりと拡がったような印象だ.

1曲目の「sunday monday」の普段着な感じから思わずにんまりしてしまうが, 5曲目の「バルコニー」で中田はこううたう.

かなわない心は
どこへたどり着くのだろう
羽のように空の彼方へ
飛び立っていずれ
見えなくなるんだね

ジャンルの正統性を叫んだり, ロックはこうだとかいっている場合ではない (以前, 中田もblogでそんなことをいっていた).
椿屋よりももっと身近になったあたたかいうたが, そこにはある.
 
ecole de romantisme
CARNIVAL(DVD付き限定盤)
孤独のカンパネラを鳴らせ
マテリアル(初回限定盤)