12/19/2016

古井由吉 鐘の渡り


古井由吉 (2014). 鐘の渡り. 新潮社.

key words:山の上の寺の鐘, 「あしたのお天気は御飯。」(:136

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山からおろす時雨の寄せるその奥に澄んだ鐘の音がふくらんで、風に乗って谷から野へ渡り、つれて眠りも遠くまで運ばれて人里を思いながら、末ひろがりにひろがって保ちきれなくなったところで破れると、並べた寝床の中で朝倉が腹這いになおって煙草を取ろうとしているらしく、夜の明けぬ枕もとを手探りしているようなので、夢のまだ残る声でたずねた。(:113

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表題作「鐘の渡り」はこんな一文ではじまる.
なんて綺麗な文章なのだろう.
このほかにも, まるで音楽を聴いているかのように美しい文章の数々が連なる.

「三年ばかり暮らした女をついふた月ほど前に亡くした」(:115)朝倉に誘われ, 友人の篠原は山登りへ出かける.
その道中, 一夜を明かした宿でふたりは鐘の音(の幻)を聴く.

妻を亡くした友人を察し気を配る篠原とは対照的に, 朝倉は「一夜の内に何を越したのか」(:124)と篠原に思わせるほど安堵の表情を取り戻す.
だが, その夕方 街に戻って別れた朝倉と篠原はもう会うことはないのだった (126).
登山から戻った篠原は熱を出し, 女の家で寝込んでしまう.
そこで彼は「暮らした女を亡くした男と、これから女と暮らす心づもりの男との間の」「交換」(:131)について考えるのだった.

美しい文章と, その情景を綴る格調高い文体, そして時折みられる時間軸や人称を行き来する不思議な描写(たとえば, 「それからふっと篠原は振り返って、人ごみの中へ紛れて行く朝倉の後姿を目にした。あれが朝倉を見た最後だった、とはるか後年になりそう思いなしていた時期があったようだ。それも記憶の紛れだった。」(:126-127)というような表現があったりする)などにより, 作品は神秘的なベールを纏う.
劇的なことは何も起きないのだが, それでも心に残る感触はとても強いものだった.

本書にはこの他に7つの短編が収められている.
いずれも, 美しくも不思議で宙に浮くような感覚を味わえる作品だ.

(写真はこの間いただいた大阪・オールデイコーヒー. 爽やかだけどコクもあって美味しいコーヒーでした)