12/31/2016

村田沙耶香 消滅世界



村田沙耶香 (2015). 消滅世界. 河出書房新社.

key words:命のキャベツ畑, 人工子宮, 「子供ちゃん」

舞台は近未来, ヒトの妊娠・出産は科学的交尾(人工授精)によって発生し, 恋愛状態とは切り離されている (14).
ヒトに恋をしてセックスをする必要がなくなった人間は, 「アニメーションや漫画の中の男の子や女の子に」(:16)恋をするようになっていた.
たとえば中学生でもヒトと恋愛をしている子は少数で, 「大半の子は物語の中の人と清潔な恋をしていた」(21).
その世界では「結婚は、子供が欲しいか、経済的に助け合いたいか、仕事に集中したいので家事をやってほしいか、そういう合理的な理由ですることが」多くなっている (74).
もはや恋愛感情は夫婦間には存在せず, 家族というシステムや概念も変わり (恋愛は家の外でするものになっている), 広辞苑の近親相姦の欄には「夫と妻など、家族間で性交渉をすること」と書いてあったりする (138).

そんな時代に, 「雨音ちゃんも、いつか好きな人と愛し合って、結婚して、子供を産むのよ。お父さんとお母さんみたいに。そして愛する二人で、大切に子供を育てるのよ。わかった?」(:8)と母親に「正しい世界」について(つまりは人間同士が愛し合いセックスをして子どもを産み育てる世界について)いつも聞かされながら育った主人公・坂口雨音は, 中学生ながら「私の肉体の奥底には、母が言うような、好きな人と交尾して、「家族」である「夫」との近親相姦の末に子供を孕みたいというような本能が沈んでいるのかもしれない」(:29)と思う.
その一方で, 雨音は「ヒトとも、ヒトではないものとも恋愛を繰り返しながら大人になっていった」(:47)のだった.

大人になり一度目の結婚に(夫に近親相姦されて)失敗した雨音は, 31歳のときに婚活パーティーで知り合った雨宮朔と結婚する (50).
しばらくは家庭の外でそれぞれに恋愛を楽しんでいたふたりであったが, 恋に疲れ, 恋のない世界へ二人で逃げるべく, 「駆け落ち」することになる (167).

その行き先は, 「家族」というシステムに代わる新しいシステム(「楽園(エデン)システム」と名付けられている)で子供を育て命を繋いでいる, 千葉の実験都市だった.
そこでは, 毎年一回コンピューターによって選ばれた住民が一斉に人工授精を受け, ちょうどいい人数の子供が生まれるよう完璧にコントロールされている.
また, 男性も人工子宮を身体につけて受精する.
そして, 人工授精で出産された子供はそのままセンターに預けられ, すべての大人がすべての子供の「おかあさん」となるのだった (116-117).

最初は, あんなの絶対にうまくいかない, 家族がいない人生なんて考えられないと思っていた(:133)朔であったが, 千葉での生活が進むにつれその気持ちが変わっていく.
そして「街全体でヒトの子供というペットを飼っているような光景」(:180)に「これではまるで、均一で都合のいい「ヒト」を制作するための工場ではないか」とぞっとしたり (183), みんな同じ髪型の子供を可愛がる夫にうすら寒い気持ちを抱いていた(:182雨音も, 次第に変わっていく.
やがて, 「一人で一生暮らすなんて孤独だろう」と思っていたその気持ちも, 「いざ、すべての人間がそうして暮らす中で日常を送り始めると、元から自分たちはこういう習性の動物だったのだという気持ちに」変わっていく(:205)のだった….

物語のラスト, 夫が産んだ赤ちゃんを見ようと新生児センターへやってきた雨音は, ガラスの向こう側に広がる巨大な「ヒト」の畑(:233)を目にしながらこう思う.

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 ガラスに近付いて改めて眺めると、青白いキャベツ畑に見えた赤ちゃんたちは、膨張した精子そのものだった。
 頭の中に、子供のころ母に写真を見せられた父の顔が浮かんだ。母に流し込まれる前、私はあの男性の睾丸の中で、こんなふうに整列していたのだろうか。命が繁殖する仕組みに、従順に従って、名前のない、無垢で純粋なただの命の粒として。
 遠くで何匹か、死んだ子が運ばれていくのが見える。かと思えば、新しい子供が運ばれてきてその隙間に置かれる。
 この命のキャベツ畑は、私がずっと見てきた世界の光景そのものだった。成長した命はやがてここから消滅し、発生した命が運ばれて来る。命の粒が運ばれてそこにできた穴に新しい命がおさまる。命が入れ替わりながら、まったく同じキャベツ畑の光景が永遠に続いていく。私たちは世界に陳列された命で、それだけだった。世界はいつでもそうだった。生命はいつでも正しかった。
 ここにいるすべてが私の「子供ちゃん」だった。(234-235

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物語のラストの数ページ, 村田は自分の母親を隣の部屋で飼っている雨音の姿を描く (252-253).
作家は, それでもやはり家族との繋がりが必要だった主人公の姿を見せようとしたのだろうか.
それとも, 人間の本能が消滅した完全に新しい世界へ取り込まれた人間の姿を見せようとしたのか….
母親が雨音へかけた呪い(人間の本能)は果たして新しい生き物である人間に打ち勝つことはできたのか…, それは分からない.

村田はなんとも不気味で居心地の悪い世界を炙り出す.
しかし, そこで炙り出される世界に不気味さや居心地の悪さを感じるのは, その世界があながち夢物語ではないとこちらへ思わせるものがあるからだろう.
「殺人出産」などにも共通のテーマではあるが, 果たして「正しい」世界とは, 「正常」とは何なのか…, 考えさせられる一冊である.

(昨日お邪魔した山形市「季分屋」さんのチーズハンバーグとエビフライ. もちろん美味しかったのですが, 自家製チーズケーキがしっとり・ねっとりで美味しかったです. 最後, 練乳のような甘さがふわっと口に残るのが最高でした)

※そして昨日の夕方買って来た, 仙台「オフルニルデュボワ」のバタール (). 今朝いただいたら, あぁ, 幸せ….


12/29/2016

伊東祐吏 戦後論


伊東祐吏 (2010). 戦後論:日本人に戦争をした「当事者意識」はあるのか. 平凡社.

key words:「当事者」として問題を扱う, 「当事者」として考える

筆者が提出した修士論文(名古屋大学大学院文学研究科)をもとにした論考集だという (295).

本書の構成は以下のようになっている.

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序論
第一章 「敗戦後論」とその批判
第二章 「敗戦後論」に見られる諸問題
第三章 戦争と「当事者意識」
結論

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まず, 序論において筆者は広島の原爆慰霊碑に刻まれた碑文の言葉をめぐる「碑文論争」から話をはじめる.
ここで筆者は, その論争がいたずらに賛否をくり返すだけで論争と呼ぶに値する議論になっていないことを指摘するのだが (11), そうなってしまう理由を「当事者意識」の欠如に求める (12).
そして, 「このような現象がみられるのは、「碑文論争」に限らないと私は考える」とし, それを「戦争についての戦後日本の「当事者意識」の欠如」へと繋げていく(:同).
そこで筆者が注目するのが加藤典洋の「敗戦後論」である.
なぜなら, 大部分の論考が「戦後の日本における「当事者意識」の欠如を、自分自身(=日本、日本人)の問題として扱うことができていない」(:14)なか, 加藤の論考は「戦後日本が、戦争をしたことをどこか無関係に思ってしまうような「当事者意識」の欠如という問題を、自分自身の問題として、その原因を日本、日本人に問うことができている」(:15)と考えるからだという.

そのうえで, 第一章と第二章では加藤の「敗戦後論」について詳しく論じられる.

第一章では, 「敗戦後論」とその批判について整理される.
第一節では「敗戦後論」の特徴と批評家・加藤典洋についてまとめられる.
ここで筆者は加藤の「「負け」や「よごれ」をひきつぎ、「ねじれ」のままに生きるあり方」(:35)と, 「ねじれ」のままに生きる可能性(「「戦前とのつながらなさ」を受けとめることによって戦前と関係する」(:47)やり方)について紹介する (加藤のいう「ねじれ」とは, 「平和憲法が連合軍の武力を背景として押しつけられたことや、天皇が戦争責任を問われていない」ことなどにある問題(:32)であり, 日本には「ねじれ」の感覚がないので, 「国内向けの自己と、国際社会向けの自己に分裂していると指摘」(:33)するものである).
そして, 加藤の戦後評論を「日本に「ねじれ」の感覚がないという問題意識をもとに、「文学」によって戦争や国民国家という政治的な問題をとらえなおしながら、戦後の日本人と戦争の関係、日本と被侵略国との関係を考えた論考である」(:50)と総括する.
第二節では, その加藤の戦後評論に対して向けられたさまざまな批判について整理される. この批判は大きく5つに分けられるのだが, いずれも正当な批判ではなく,「要するに、「戦後日本は大東亜戦争を受けとめないかぎり、謝罪は不可能である」との加藤の主張は、その前提として「戦後日本が戦争や大日本帝国とつながりがあること」や「国民国家という枠組みのなかで生きていること」を認める立場にあるために、そのことをすぐさま大東亜戦争や国民国家の肯定として受けとってしまった人々が、加藤に対して被害者無視だとか、国家主義的だとの批判を寄せたのである。しかしそれは批判ではなく、拒否反応に近い。(…中略…)本来議論されるべき主題が受け取られなかったというのが、「敗戦後論」論争の実態である。」(:81)とまとめられるのだった.
第三節では, 以上のまとめを踏まえて「敗戦後論」論争がかみあわない理由について考察される.
その理由を筆者は, 「加藤と「国民国家批判」の対立は、まるで一種のあわせ鏡」であり, 「スタート」側から立論する加藤と, 「ゴール」側から立論する「国民国家批判」が, 「実は自分の影法師と戦っていた」(:93)ことに求めるのだった.

第二章では, 加藤の「敗戦後論」にみられる諸問題が筆者の視点からまとめられる.
第一節では, 加藤が「戦前と戦後のあいだには、深い「断絶」があるととらえており、戦死者にとって戦後の日本人は「裏切り者」である」(:116)と受け止めるようになった理由について考察される.
そして第二節では, 実際に加藤の論考が行っている内容やその達成度について検討される.
筆者は「加藤の「文学」は機能障害を起こしており、「戦前の受け止め」は十分に実践されていない」(:143)とする.
なぜなら, 「戦前と戦後が「断絶」している以上、やはり当事者として「負け」や「汚れ」を十分に感じることはむずかしく、「ねじれ」をもたらす経緯と無関係であるならば、「ねじれ」の感覚をもつことは困難」(:128)だからであり, だから戦後日本は「戦争をしたこと」を受け止められずに「当事者意識」をもてない(:145)とするのだった.

第三章では, 「ダマシダマサレ」ながら戦争を行った責任について論考される.
第一節では伊丹万作や丸山眞男, 小熊英二らの言説や戦争責任論の問題点が整理され, 「従来の研究が、いかに国民が「ダマシダマサレ」ながら戦争をすすめていったことを論じきれていないか」(:163)まとめられる.
ここでの筆者の目的意識は「自分のことを棚上げしないかたちで戦争について「当事者意識」を問うことにより、現在多くなされている議論とは違う論点をとりだして」(:173)みることにある.
第二節では人々から「当事者意識」が欠如する様相について述べられる.
筆者は「敗戦直後の日本には、戦争と自身の関係のとらえ方のパターン」(:186)として, それぞれの主張を「一億総懺悔」論, 「犠牲者」論, 「自業自得」論, 「ひらきなおり」論があるとまとめる.
そして, 戦中の「縛られていた」という感覚(:189)から, どの論も互いに責任を押し付け合いながら対立していることを指摘するのだった (187).
第三節では, ではなぜ「当事者意識」が欠如したのか, その原因について考察される.
筆者は「彼らが、自分で自分を縛っておきながら、あたかも他者に縛られていたように感じ、また、自分たちが招いた結果に「当事者意識」をもてなくなったことには、戦中における彼らの行動に原因があった」(:199)と考える.
その行動の背景にあるのは, 自分たちは「与えられた役割をこなしながら堪え忍んでいた」(:同)という感覚だ.
さらに筆者は「戦中に人々の生活に強制力をもっていたのは、国家権力の恐怖などよりも、そうしなければいけないと思う自分の気持ちや、人と人とのつながり」(:203)であり, 自分の役割に徹すれば徹するほど戦争を進展させたにも関わらず「「やりたくてやったんじゃねーよ」という「当事者意識」の欠如」をもたらした(:同)ことを指摘するのだった.
第四節では, 大岡昇平, 吉田満, 岩崎昶ら「戦争についての「当事者意識」をもつ者たち」(:210)の考えが取り上げられる.
そして第五節では, 丸山眞男, 竹内好, 鶴見俊輔ら, 戦後知識人とよばれる人たちの考えが取り上げられる.
筆者は彼らが戦争の最前線では戦わなかったことから, その思想の特徴を「補欠」という言葉であらわす.
それ(「補欠」)ゆえ, 彼らには「戦争をした責任が自分に返ってこない(誰かのせいにすること)」, そして「抵抗の可能性だけに固執する」といった特徴があると指摘し, それらは「当事者意識」を失わせる要因と同じものだとする (236).
そして, 「当事者意識」のない「補欠」の戦後知識人たちが形成した日本の戦後思想は「戦争に負けてすぐに自分から好んで「当事者意識」を捨て、今度は戦争の「当事者」ではなかったと主張する思想」であった(:239)とするのだった.

これらを踏まえて, 結論では「戦後の日本に見られる、戦争をしたことをどこか無関係に思ってしまうような現象を「当事者意識」の欠如という問題としてとりあげ、その様相やこれまでに行われてきた議論を検証しながら、その争点について論じてきた」(:267)筆者は, その要因を自ら堪え忍んで個々の役割をこなした日本人の行動に求め, 「自分たちが事態を進行させていることに実感が持てず、終戦後にはますます戦前に自分の行動とのつながりを失った」(:268)とこれまでの論をまとめる.
そして, 戦後思想をつくりあげた知識人らが戦争を「補欠」として戦ったがゆえに「当事者意識」が欠如していることを再び指摘し, 戦後知識人の思想を求めた戦後の日本人に「当事者意識」が欠如した戦後思想が形成された(:同)とまとめるのだった.

さらに, 最後の最後に筆者は印象的な問題提起をする.
その部分が以下である.

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 それとも関係するが、戦争をした日本人の行動様式やメンタリティが、現在のわれわれにおいて変わっていないことも無視できない。私はさきに、戦争をした人々が、自分の身を守りながらやりすごすという方法をとったことにより、戦争を進展させておきながら「当事者意識」を失ったことを指摘したが、これと同様の「無責任の体系」は、戦後日本の社会構造やメンタリティにも深く巣食っている。その意味で、戦争をした人々と現在のわれわれは、ほとんど同一人物であるのだ。つまり、現在の日本人はいつでも、大なり小なり、戦争をしたのと同様のかたちで事件を起こしうるし、それを再び他人事のようにして葬り去る可能性がある。いや、すでにそのような行為を積み重ねているのであり、言うなれば、現在における様々な「当事者意識」の欠如や「無責任の体系」の起点に、戦争についての「当事者意識」の欠如が存在しているのである。戦争をした同時代人たちの体験が、われわれにとって他人事であるとは決して言えないのであろう。
 以上に挙げた、現在の国民国家の枠組み、血のつながり、ほぼ全員が戦争をおこなったという行為の質、日本人の行動様式やメンタリティなどの複合的な条件から、私は、戦後生まれの日本人も、戦争の「当事者」であると考える。(:276-277

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さらに筆者は, 知識人らが目の前にある諸問題について「自立」「成熟」を説くだけで現実と正対することを避けているとし, そうすることで現状に対し「当事者」であることからすりぬけてしまうことを危惧する (279).
本書は2010年の夏に出されたものであるが, 読んでいて想起されるのはやはり原発や自衛隊法案などをめぐる一連の問題である.
そこにも無責任と当事者意識の欠如がそのまま見られるのが恐ろしい.
その一方で, 読んでいてどこか空しさや気恥ずかしさを覚えてしまうのも(筆者自身も「自分を戦争の「当事者」と考えている」(:同)ことを告白するが, 戦争に行っていないのに遠くからなにを言っているのか…, と思ってしまうのも)事実である.
筆者がいうように, 「当事者意識」をもつことは難しい問題である.
本書で指摘されるように, 「当事者意識」は自ら掴み取るべきものであるのだから….

(熱塩加納町「ほまれ食堂」の担々麺. 太いちぢれ麺に辛い(ずっと食べているとホントに辛い!)スープが美味しかったです. そのあと, 若松・七日町の蔵喫茶「杏」へ (途中、縦貫道では水田に磐梯山が綺麗に写っていて, すごい眺めでした). 大吟醸シフォンケーキをいただきながらのんびりさせてもらいました~)


12/25/2016

上山②


ゆっくり朝御飯とお風呂をいただいて, のんびり.
今日も雪は降らないものの寒い一日.

お昼は「NORMA」へ.


ポテトクリームの専門店ですが, 今日は生パスタ(取り寄せているものなのだそうです)をいただきました.
ぷりぷり海老のトマトクリーム.
もちもちで美味しかったです.
3月には山形にもお店を出される予定なのだとか.
お土産にテイクアウトでいただいてきた小柱のうにクリームも美味しかったです.



(※昨日放送だった「チョイ住み in フィンランド」(NHK BS), あぁ次はやっぱりサウナに入りたい!)

12/24/2016

上山①

上山へ.

お昼にお邪魔した「Le ciel bleu.
「時の果実」から新しく移転したお店です.


メインにいただいたスズキのポワレがとっても美味しかったです.

おやど 森の音へ.



大きな暖炉のある明るいロビーが印象的でした.

今日は予想に反して雪も降らずに晴天.
気温はとっても低かったのですが….

お風呂にゆっくり入って温まったあと, 夕食をいただきました.


揚げたての甘鯛と, この(↑)ホタテの燻製とクリームチーズが美味しかったのです ()

12/23/2016

海よりもまだ深く


映画「海よりもまだ深く」
監督 是枝裕和 / 2016

映画館で観そびれた作品をDVDで観る.

人物の会話や振る舞い, 光の具合がとても自然で, まるで映画ではないようだ.

カレーうどんを作るシーンがいい.
是枝作品の料理(飯島奈美)のシーンは大好きだ.

台風の夜に母(樹木希林)が息子(阿部寛)へ こういう場面がある.
「あたしは, 海より深く人を好きになったことなんて, この歳までないけどさぁ」
そして母は続ける.
「それでも生きてるのよ毎日楽しく」, 「人生なんて単純よ」, .
複雑だなぁ, と呟く男(息子)とは対照的に, 母は日常をそのままに受け入れる.
日常は, 楽しさも悲しさも含めて日常なのだ.

なりたいものになれた人も, そうでない人も, 人は生きているのだ.
たとえ人生が思い通りにはいかなくとも.

(↑スタバタンブラー, 先月リニューアルしたのだそうです)
(↓この間 南陽市・日用品の「き」で買ってみたツバメサブレ. 落ち着く~)