7/27/2016

福岡伸一 芸術と科学のあいだ


福岡伸一 (2015). 芸術と科学のあいだ. 木楽舎.

key words:ヴィレンドルフ村のヴィーナス (182), ファーブルの言葉(:272

日本経済新聞において2014216日から2015628日までの間に掲載された記事をまとめた一冊.
著者は「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書)などのベストセラーで知られる生物学者であるが, フェルメール好きとしても知られており, 芸術にも大変造形の深い人物である.

話題は多岐にわたって面白いが, 前半では米国に滞在し研究留学生活を送っていた時期に出逢った数々のアート体験について述べられる.
美しい写真や絵とともに, 文章がキラキラと読み手の中へと入ってくる.
後半では, フェルメールをめぐる話のほか, 科学の世界に見られるアート, そして現代アートについて話が及ぶ.
著者の芸術についての豊富な知識量に驚かされる.

「はじめに」で福岡は, 生物学をはじめとする科学においては, アーティスティックなセンス, つまりは秩序があるところにうつくしさを感じるセンス(:2)が要求されるという.
そして, 科学者と芸術家は, 「方法こそ異なるものの」, 「たえなまく移り変わりゆく動的な世界のあり方をなんとかして捉えたい・書き留めたいという」同じことを希求していたという (7).
そして, たとえば染色体が正しく分配される方法を「それはまるで名うての手品師が、トランプの札を何度もシャッフルしたあと、二つの山にわけてみせるとあら不思議、一方に黒札だけが、他方に赤札だけが集められているような、そんなアーティスティックなまでに鮮やかな手際なの」だと評したりするのだった.

芸術と科学のあいだ.
そこには大変スリリングで魅力的な世界が広がっている.

(写真は仙台市「かつせい」の特ヒレカツ. 最近もりもり肉食ばかり…)

7/26/2016

野平一郎 作曲から見たピアノ進化論


野平一郎 (2015). 作曲から見たピアノ進化論. 音楽之友社.

key word:ピアノ

本論はピアノの誕生からはじまり, 前半では大バッハ (もっとも彼はピアノとの関わりをほとんど持たなかった(:26)が), 当時のウィーンのピアノが原動力となり「うた」に溢れた数々の作品を書いた(:55)モーツァルト, 最後の一連のソナタがその後の音楽史へ多大な影響を与えた(:72)ハイドン, 鍵盤の重いエラールのピアノを所持したことで「ワルトシュタイン」や「熱情」などの作品を生み出した(:73)ベートーヴェンなどについて書かれる.
その知識と調査量の豊富なこと!
ピアニストとしての視点と学者としての視点を両方持つ筆者ならではの文章が続く.

中盤は, 「連続する分散和音、果てしのないオクターヴ、どこまでも続いていく反復音等々を冷徹に使用し、それが劇的な表現と結び合わされることによって、それまで考えられなかった技術」を開拓した(:92)シューベルト, ピアノの歴史やピアノ作品の歴史の幅をさらに広げた(:98)ショパンとシューマン, その人間(キャラクター)と作品とでもって「ロマン派」を体現した(:115)リスト, レガートや複数の音楽的要素を弾き分ける指の独立した技術などを求めた(:122)ブラームス, そしてフランスにおけるサン=サーンスやフランク, フォーレ等による国民音楽協会の活動(:128)などに話がおよぶ.
中でも, フォーレの音楽についての記述には共感できた.

野平はいう.

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澄んだ水が常に流れているような感覚、新鮮な和声、旋法的な響きの扱い。一瞬一瞬の複雑な響きを仕分けながら、全体に「水を流して」いく作業は、それまで以上に繊細なペダルの踏み方をもたらした。ピアノの音に対して今までとは異なる光の当て方が求められたので、上から下までの音域を扱うバランス感覚が一変する。彼のピアノ音楽は、まだまだロマン派の作品に影響された旋律と、和声が作る伴奏音型の世界にとどまっている。しかし、その旋律線はそれまでにない輪郭を持ち、伴奏音型は繊細さを究め、これも和声との関係で新鮮な動きを見せる。(:131

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ここでも(フランスで勉強した)ピアニストならではの視点が説得力を与えるのだった.

その後, 野平は「それまでの音楽の流れを根本的に変えてしまった」(:133)作曲家としてドビュッシーを紹介する.
「調性、教会旋法、教会旋法ではない彼独自の旋法、全音音階、五音音階、半音階中心の和声、四度和声、平行和音などのさまざまに異なった音組織は、その中の一つが主張することなくすべてが巧妙に混ぜ合わさっている。そのブレンド具合は、ドビュッシーという一人の天才の耳が聴き取った結果であり、この時代のフランスでしか可能ではなかった。」(:136)とし, 「前奏曲集第二集」を楽器の響きという点からピアノ史を通じてもっとも先鋭的な作品と評し, 「十二の練習曲」や「白と黒で」をピアノ音楽が到達した最高峰の一つ(:138)と評するのだった.

さらに本書は, ピアノによる「ハーモニックス奏法」を生み出した(:148)シェーンベルク, 「半音階を中心とした高度に抽象的な音楽と、より全音階的な、国民的で具体的な音楽との間に融合点や矛盾点を見出そうとしながら生きた」(:156)バルトーク, 遅れてやってきた「ロマン派」であり神秘主義の作曲家である(:161)スクリャービン, ピアノを楽器の底から鳴らす一つの有効な方法論を提示(:162)したラフマニノフ, そしてプロコフィエフとストラヴィンスキーを紹介する (プロコフィエフとストラヴィンスキーについて野平は, その最良の作品としてプロコの「第二ピアノ協奏曲」(:164)とストラヴィンスキーの四台のピアノと打楽器アンサンブル, 独唱と合唱のための「結婚」(:165)を挙げている).

終盤には, 「楽器の新たな発展」と題して章を設け, 音域の拡張(ベーゼンドルファー)やソステヌート・ペダルの装着, プリペアード・ピアノ, 内部奏法 (特に厳密に書かれている一例として, 発音されなければならない音高(例えば第七倍音など)が厳密に指定されているジョージ・クラムの「マクロコスモス」(:176)が挙げられる), 自動ピアノや平均律以外の調律の可能性などについて述べられる.
また, 「前世代のドビュッシーやラヴェルに比べて、「もやもや」のない明確な音を志向」(:183)したプーランクをはじめとする六人組の作曲家や, 20世紀生まれのフランスの作曲家であるメシアン, デュティーユ, ブーレーズ (デュティーユとブーレーズについては, 両者の対照的な「ピアノ・ソナタ」を対比(:185)してみせる), 「八十八の鍵盤を集合論で扱うやり方(肉体を容赦なく駆使して全鍵盤上に散らばる音たちを制御しなくてはならない)」(:189)を検討したクセナキス, そしてトリスタン・ミュライユ (「忘却の領土」(:190))が紹介される.
さらには, ブルガリア出身のブークレシュリエフ(「アルシペル(群島)」シリーズの第四番)やポルトガル出身のエマヌエル・ニュネス (「火と海のリタニ」), フィリップ・マヌリ (「東京のパッサカリア」など), ユグ・デュフール (「馭者クロノスに」(:191)など), エリオット・カーター (「十二のエピグラム」(:194)など), 「何事にも人並み外れた壮大な計画を持ってのぞむシュトックハウゼン (19曲の「ピアノ曲」(:195)など), 戦後「ダルムシュタット楽派」のルイジ・ノーノ (ピアノとテープのための「苦悩に満ちながらも精朗な波…」(:197)など), 「ソステヌート・ペダルの効果的な使用を追求した」(:同)ルチアーノ・ベリオ (「セクエンツァ」のシリーズ), 「ピアノを表層的に扱うのではなく、鍵盤での表現をより深く究めた」(:198)ヘルムート・ラッヘンマン (クラリネット、チェロとピアノのための「アレグロ・ソステヌート」), 「現代のモーツァルトあるいはミヨーとも言える超多作家である」(:199)ヴォルフガング・リーム (Nachstudie」など), 「通常の鍵盤奏法の中で新しいピアノの響きを模索している点で注目される」(:同)ベアト・フラー (Melodie Fallend」など), オーボエのヴィルトゥオーゾとしても有名なスイスのハインツ・ホリガー (シフに献呈された「パルティータ」(:200)など), ハンガリー生まれのペーター・エトヴェシュ (二台ピアノ、三人の打楽器、シンセサイザーによる「六人のためのソナタ」(:同)など), 「すべてがセリー技法の複雑化によって制御された世界」を書いた(:201)ブライアン・ファーニホゥ (Lemma-Icon-Epigram), サルヴァトーレ・シャリーノ (ピアノとオーケストラのための「Recitativo oscuro」(:同)など), フィンランドのマグヌス・リンドベルイ(「Twine」(:同))など, 20世紀後半以降の作品が次々と紹介される.

また, 続く「日本のピアノ作品」と題した章では, 滝廉太郎の「メヌエット」や「憾」を, 「ほぼ日本初のピアノ曲と言ってよいだろう」(:203)と紹介する.
そして, 「十二音技法と雅楽という斬新なドッキングによるスタイルを確立し、国際的な地位を確固たるものとした」(:204)松平頼則(「越天楽による主題と変奏」など)や「武満の師でもある」(:同)早坂文雄(「ピアノ協奏曲」)を重要な作曲家とする.
武満徹については, 「ピアノ・ディスタンス」を高く評価し, 次のようにいう.

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《ピアノ・ディスタンス》におけるピアノの用い方は、それまでの西洋や日本のさまざまな扱い方とまったく異なるユニークなもの。音響としての単音、旋律の断片、オブジェとしての和音、こうした構成要素が弱音の多様なニュアンスを生み出す。しかし曲の中間で、驚嘆すべき和音のパッセージがやってくる。最弱奏で始まる密度の濃い和音は、次第に強さの極点へと至る。武満の六〇年代後半の管弦楽作品に必ず見られる、あのノイズへと至るクレッシェンドの原型が、ここにある。(:205

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そして「武満のピアニズムは、その後ドビュッシーやメシアンの影響が色濃いものとなり、国際的名声を反比例して初期の驚愕するような想像力は消えていく。」(:同)とし, 5060年代の作品を評価するのだった.
その他にも, 「六〇年代のピアノ作品で探究されつくした感がある「内部奏法」への決別、再び「鍵盤」に戻って、そこでどういう新しいことができるのかを追求した作品」(:206-207)である湯浅譲二の「オン・ザ・キーボード」や, 「新たなピアノの不可能性ともいえる書式を創造」した(:207)一柳慧の「ピアノ・メディア」や「タイム・シークエンス」を, 日本の作曲家による重要な作品として挙げる.
また, 192030年代に生まれた作曲家の中から, 「現代音楽だけではなく日本各地の民謡、世界各地の民族音楽や前衛ジャズなど、複数ジャンルの影響を見せるピアノの使い方が独特」な間宮芳生(「ピアノ・ソナタ」第2番など)や, 「西洋の現代音楽の動向に影響を受けた《スペクトラ》シリーズが重要な」松下眞一, 「類例のない音楽の持続力が鮮烈な印象を与える」松村禎三 (「ピアノ協奏曲」など), 矢代秋雄 (「ピアノ・ソナタ」や「ピアノ協奏曲」), 三善晃 (「シェーヌ~ピアノのためのプレリュード」や「アン・ヴェール」), 林光(:208-209)の作品を, 「日本のピアノ史に名を残す作品」(:208)として挙げる.
この他にも, 三十年代生まれの世代から多くの日本人作曲家が紹介されるのだった.

最終章である第28章は「ピアノ進化論の最後に」と題して, 「国際化」という名の下に, より機能的だが没個性的な楽器が求められ, 世界中のコンサートホールにスタインウェイとベーゼンドルファーのフルコンサート・グランドピアノが常備されている事態を指摘する (213).
さらに野平は, その画一化は教育機関やコンクールの現場でも進んでいることを指摘する (215-216).
そして, 「まず音楽大学で学び、国際コンクールで入賞を経てピアノストが生まれるという、あらゆる面で構造化されたピアノ界から、今までにないタイプのピアニストは本当に生まれるのだろうか」(:216)と疑問を呈し, 「こうした構造化した世界に風穴をあけ、そこから逸脱した存在や強力なイマジネーションをはぐくむことが求められている」(:218)とするのだった.

本書は, 月刊誌「音楽の友」で20101月から20123月まで連載された記事に加筆修正を施したものだという.
下手な音楽史の教科書よりもずっと分かりやすく (!), 読んでいてしっくりくる内容だった.

(写真は米沢市・米沢牛亭「ぐっど」のヒレステーキ. 肉厚, 柔らか, 満腹!)

7/23/2016

古内一絵 マカン・マラン



古内一絵 (2015). マカン・マラン:二十三時の夜食カフェ. 中央公論新社.

key words:ハナミズキ, キジトラの猫, 昆布

「マカン・マラン」
長い商店街の外れの細い路地の先, 中庭にハナミズキの植わった古民家にそのお店はある.
昼はドラァグクイーン御用達の「ダンスファッション専門店 シャール」だが, 夜は常連たちが集まるカフェに変わる.
ネットにも情報のない, 縁のある者だけが辿り着ける深夜営業の夜食カフェだ.
インドネシア語で「マカン」は食事, 「マラン」は夜を意味する (14).

マカン・マランに集う面々は, 喪失感, 絶望, 寂しさ…, さまざまな感情に疲れている.
そんな彼女ら・彼らを癒すのが, 店主であるシャールが作る優しい料理と, 彼(彼女)の人柄だ.
シャールには人を引きつける不思議な力がある.
いつだって, そこにいるだけで, 誰もが自然と彼の話に耳を傾ける(:107)のだった.
ある日, 絶望するフリーライターの安武さくらにシャールはいう.
「苦しかったり, つらかったりするのは, あなたがちゃんと自分の心と頭で考えて, 前へ進もうとしている証拠よ」(:185)と.

四つのお話が収められていて, そのどれにも見ているだけで美味しそうな料理が登場する.
なかでも, 第三話までの登場人物が大集合する最終話「大晦日のアドベントスープ」に登場する「フォーティアチャン」というスープが, なんとも美味しそうだった.
あたたかい気持ちになる, 優しいスープのような一冊.

(写真は山形市・蔵王温泉「奥村そばや」の中華そば(最近少なくなった正統派の中華, また食べたくなる味)と,「さんべ」の「稲花餅」(甘いこしあんの入ったあたたかい小振りのお餅). そして下の写真は…, 大量の湯の花!)


7/16/2016

石川浩司ビッグ☆ディナーショー


石川浩司ビッグ☆ディナーショー
2016.07.16 / 山形市・金魚

山形市七日町の居酒屋, 金魚で石川浩司さんのライヴ.
お店奥の座敷で, 観客は35人ほど.
(本日のライヴ, おにぎりと笹巻のお土産に, 玉コンやトウモロコシ, 漬け物, 野菜などのオードブル, そして飲み放題付きで5000円!)

第一部は「カブラギのおしえ」からスタートしたライヴ.
山形でのライヴは たまとして文飛館に訪れた以来, なんと20年ぶりとのこと.
トークを交えてまずは30.
早速こころを持って行かれる.

第二部は, お客さんからもらったお題によるトーク.

続く第三部はお客さんとのセッションコーナー.
今回の主催者・ヌマノ音楽教室のみなさんなどと, 大盛り上がり!

なぞなぞコーナーの第四部に続き, 最後の第五部は再びライヴコーナー.
「メメントのモリ」(「玄関」より)からスタート.
続く「玄関」や「オンリーユー」は切ないラブソング.
愛に溢れたうたにグッと来る.
「ただいま」と言って「おかえり」と返してくれる人がいることの幸せを, 生まれてきて生きているだけでそこにある尊さを, 自分と他人を比べる必要なんかないということを, 更には生きるということと死ぬということを, そんな, 文字にしてしまえば信じられないほど嘘臭いようなことを, 本当にそうなんだよ, と全身全霊でうたわれる うたの強さ.
そう歌いきれる根拠は, 自分が強くそう思うから, ということ.
石川浩二のうたの魅力を, 存分に感じられた時間だった (アンコールは「ガウディさん」(たま)!).

※明日の新庄・Kitokitoマルシェにも出演されるそうです.

Pascalsもとっても気になる今日この頃)

7/09/2016

津村記久子 これからお祈りにいきます


, ラジオを点けるとちょうどNHK FM「クラシックの迷宮」をやっていました.
片山さんの話とメロディオンが大好きです.

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津村記久子 (2013). これからお祈りにいきます. 角川書店.

key words:高江垣先生の髪の毛, ヤシロさんの薬指

「サイガサマのウィッカーマン」(初出は2012年)と「バイアブランカの地層と少女」(2008年)の2本が収められている.

「サイガサマのウイッカーマン」は, 人体の一部を模したものを作り捧げる「サイガサマ」(おそらく小説の舞台である雑賀という大阪の町の名前からきている)という祭(神様)をめぐる話.
主人公であるシゲル(高嶋滋)は「自分の身の周りで起こるだいたいのことに怒っている」,「吹き出物だらけで皮脂が出やすい体質」(:10)の高校生だ.
イライラの理由はさまざまあるのだろうが, 引きこもりの中学生の弟やいつもピント外れのことばかり言ってくる母親, そして外で浮気をしているらしい父親の存在, そして彼が住む町にあるサイガサマの不思議な風習が彼を苛立たせる.
シゲルは小学生のときにサイガサマの自由研究作文で市長賞をもらったことがあり, この祭や神様については詳しい.
彼がかつて調べたところによると, 「サイガサマは、人間の体にとても興味があって、本気で何かを右から左へ動かす時は、願をかけた者の体の何かを取っていく。人間の体の一部から力を得て、その願いを叶えるという、ほとほと下等な神様なのだ。祈願する人は、どこを捧げるかは指定できないけれども、どこを取られたくないかは申し出られる。申請方法は、それを細工物の形にして、当時の祭の日に捧げられる人形に編んだ籠の中に放り込むことである。」(:14)ということらしい.

ある日シゲルは, あたらしくもうひとつ始めようとしていたバイトの面接先で, 小中学校での同級生・関塚暁子と出会う.
苦労しながらバイトを幾つもこなし将来へと向かう彼女や, 小学校のときの恩師である高江垣先生 (この高江垣先生がいい味を出している. 引きこもりの弟のことについても, 優しくシゲルに彼の想いを伝えてあげたりする(:127)のだ), 公民館での申告物教室の手伝いで再開したヤシロさん(シゲルは小学生の自由研究で役場のヤシロさんにインタビューしていた)へのシゲルの接し方や話し方が, いかにも思春期の高校生のようで微笑ましく描かれる.
また, 彼女ら・彼らとの会話によって苛立っているシゲルの心がほんの少しずつ溶けていく様子も, まさに男子高校生の日常のようになんとも上手く描写されるのだった.
日常を丁寧に描く, 筆力のある人が書いた文章だと思った.

小説の最後, ヤシロさんは左手の薬指の第二関節までを失ってしまう (150).
それを見てシゲルは一瞬驚くが, 「心臓が止まって生まれてきたヤシロさんの友人の赤ん坊が助かった、という話を思い出して、なぜか平静さを取り戻」す(:同)のだった.
最後まで, サイガサマはつくづく不思議な神様である.

本書にはもう一話, 地球の裏側のブエノスアイレスに住むフアナと(いつか)出逢うことを夢見る大学生・作朗の話「バイアブランカの地層と少女」も収録されている.

(写真は山形市みはらしの丘・炭火焼肉「meat meet」の山形牛ステーキ丼. すごいボリューム!そしてもう一枚は寒河江市のGEA (佐藤繊維がやっているオシャレなセレクトショップとカフェ). いただいたジンジャーエールは生姜が辛めで美味しかったです)