高橋源一郎 (2015). ぼくらの民主主義なんだぜ. 朝日新聞出版.
key words:何種類もの「民主主義」, 『ぼくらの国なんだぜ』
「小説以外のことはあまり書かないようにしようと思っていた」という著者が, 「小説以外のことを書きながら、実は、そのどれもが、小説に関係あるんじゃないか、と思った。いや、小説に関係のないことなんかないんじゃないか、とさえ思うようになった」という
(:251).
本書は, そんな小説家が朝日新聞に連載(2011.04.28 - 2015.03.26)した「論壇時評」だ.
本書のキーワードのひとつは, タイトルにも表れているとおり「民主主義」である.
民主主義とは, 「たくさんの、異なった意見や感覚や習慣を持った人たちが、一つの場所で一緒にやっていくためのシステム」(:254)であり, 「ぼくたちは、ひとりで、何種類もの「民主主義」に参加している」(:255)と著者はいう.
そして民主主義の実現の仕方は無数にあり、それはひとりひとりの「ぼくらの民主主義」なのだとする
(:同).
考えさせられる文章が多数収められていたが, 特に印象的だったのは「みんなで上を向こう」(2011.06.30)と「記憶の主人になるために」(2014.11.27)と題された2つの論考だ.
「みんなで上を向こう」は, 原発問題をはじめとした, 社会のさまざまな場面で無かったことにされる/見えないようにされる
システムについてまとめる.
そして筆者は鷲田清一の「見えないものは多いが, 見えているのに見てこなかったものはさらに多いのではないか」という意見に触れ, こう言う.
ぼくたちには(専門家らが見つけたものを)素人として「見よう」という強い意志をもつことが必要なのだ
(:22), と.
「記憶の主人になるために」では, 朴裕河の「帝国の慰安婦」の日本語版出版から, 従軍慰安婦問題が取り扱われる.
ここでも, 消された声/記憶について考えが巡らせられる.
朴の著作に触れ, 「かつて、自分の身体と心の「主人」であることを許されなかった慰安婦たちは、いまは自分自身の「記憶」の主人であることを拒まれている」(:226)とする.
さらに, なぜ「過去」が「現在」の問題となるのか,(自分も含めて)若い世代が一番気になる点についても論を展開する.
著者は, このことについて「それは、「過去」というものが、決して終わったものではなく、その「過去」と向き合う、その時代を生きる「現在」のわたしたちにとっての問題だからだ」(:227)とする.
そして, テッサ・モーリス=スズキの「過去は死なない」に触れ, 「過去はいまもわたしたちの中で生きている」(:228)とするのだった.
いずれも, 「誰でも使える、誰にでもわかる、「民主主義」なんてものは存在しない。ぼくたちは、ぼくたちの「民主主義」を自分で作らなきゃならない」(:254)という著者の考えに自ずと結びつくものだった.
本書の最後, あとがきで著者はこう述べる.
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すぐに、ぼくは社会や政治について語ることばを、実は、誰も持っていないのではないだろうか、と思うようになった。
そして、社会や政治のことを書くためのことばを探しながら、ぼくは書いていった。
けれど、そのことばなら、知っているような気がした。
小説のことば、文学のことばは、こんなとき、こんな場合にこそ、その力をもっと発揮できるように思えた。(:253)
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ことばを重ねて・交わして, 自分たちの民主主義をつくる方法をぼくらは考えなければならない.
(写真は先日お邪魔した山形市「38 garden cafe」のダッチオーブンパンケーキ. ふわふわで美味い!)