8/10/2016

村田沙耶香 コンビニ人間


村田沙耶香 (2016). コンビニ人間. 文藝春秋.

key word:光に満ちた箱

なんで○○じゃないの? なんで××しないの?と, 世間一般の価値観から外れた行為に対して理由を求められ, そのたびに相手が(世間が)納得する模範回答をしなければならない.
その鬱陶しさを感じた経験は誰にでもあるのではないか.
村田は「コンビニ人間」の目からその窮屈さ, 無意味さを冷やかに炙り出す.
それも, 「コンビニ人間」本人にはそんな窮屈さすら無意味であるかのように.

コンビニでアルバイトとして働く古倉恵子は, きびきび, 丁寧にかつ完璧な仕事をする36.
スマイルマート日色町駅前店の「コンビニ店員として生まれる前」(:7)は少し変わった子どもだったりしたのだが, コンビニでは上手に「人間」をする方法を身につけ (29), 複雑な人間関係が必要ないコンビニを愛しているのだった.
自分が思うまま素直に発言をすると, 他から「不気味な生き物を見るように」扱われ, 「あ、私、異物になっている。」(:77)と思うことが主人公には何度もあった.
一方, コンビニという社会(集団)では, 指示通りに行動すれば, 私は「使える」道具(:79)で居続けることができた.
そのため, 古倉恵子はコンビニで長い間生きてきたのだった.

そこへ婚活目的でバイトへやって来た白羽という男が現れる.
そこから, 彼女の平穏な18年の生活が変わり始める.
恋愛感情はまったくないが, 色々と考えた末に彼と一緒にいる方が都合がいいと考えた主人公は, 白羽へ自分と婚姻届を出すことを提案し(:86)同居生活(本人の言い方でいえば
「白羽さんを飼い始め」た(:106)のだが)をはじめる.

一時は順調だった白羽を飼いながらのコンビニ店員生活だったが, やはりやがて限界を迎えることになる.
実の妹からも遂に匙を投げられ, 唯一の生活の場であったコンビニも失った主人公は, 堕落した生活を送り出すのだった.
(もともと, 主人公は朝にコンビニへ行くことで「朝という時間が、この小さな箱の中で正常に動いているのを感じ」(:6)「私は世界の部品になって、この「朝」という時間の中で回転し続けている」(:同)のを感じていたのだ)

そして物語の終盤, 就職試験の面接を受けるべく半ば無理やり白羽に外の世界へ連れ出された主人公は, やはりコンビに捕まってしまう.

怒鳴る白羽に主人公がいうセリフがある.

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「気が付いたんです。私は人間である以上にコンビニ店員なんです。人間としていびつでも、たとえ食べて行けなくてのたれ死んでも、そのことから逃れられないんです。私の細胞全部が、コンビニのために存在しているんです」(:149

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傍から見れば狂気の沙汰だが, そういう本人はいたって冷静で熱意に溢れているのだった.

短い話を一気に読み終えて思うのは, はたしてコンビニ人間であることを改めて再確認した(できた)主人公の生き生きと幸せそうな様子に, コンビニ人間ではない人間はいったいどう声をかけるべきなのか, ということだ.
幸せも何もかも, すべては個人が決める.
そういえばそれまでだが, それでは人間とは, 社会とはなんなのか….
本書の射程はとても広い.

(写真はこの間お邪魔した山形市「HACHINO'S」のビーフカレー. 素朴なのに奥深い. チーズケーキもホロホロと美味しかったです. カレーといえば, 仙台の楽天ハンモック, 417日に閉店したんだそうですね…

8/09/2016

諸橋近代美術館 「ハロー、クルック」展



ハロー、クルック:共感する記憶
2016.04.20 - 09.02 / 諸橋近代美術館

イギリスの画家, パメーラ・ジューン・クルック(1945 -)の企画展.
画家のポートレート写真などのほか, 35点の絵画作品が展示されている.
クルックの膨大なコレクションをもつ諸橋近代美術館では, 彼女の個展は今回で4回目になるという.

最初に展示される「レッドドア」(1995)は, 額の凹凸がドアに見立てられている作品.
画はカンヴァスを超えて額の上にも描かれ, 額は見るものと作品との間にある壁・境界ではなく, それらを結び付け繋ぐものへと変わるのだった.

「大都市」(1998)は波型木枠に張ったカンヴァスに描かれる.
まるで人の波が押し寄せてくるよう.
その一方で, 人々の表情はどこか冷めてもいて, まるで時間がふっと止まったようなもしからしたらとても静かな場面なのかも…, とも思わせる不思議な作品だった. 

日本を題材にした作品もいくつか展示されている.
《ジャポニカシリーズ》に描かれた5つの場面(東京・京都)も面白かったが, 東北地方太平洋沖地震の翌年に描かれた「ア ビッガーウェーブ」と「ビックウェーブ」のふたつの作品が印象的だった.
「ア ビッガーウェーブ」では, 着物(帯の部分がコラージュになっている)の女性が開ける窓の向こうで, 大きな波が渦巻く.
大波は殊のほかポップに描かれるが, 着物の女性の後ろ姿はとても静かだ.
窓の向こう側とこちら側との圧倒的な差異が印象的だった.

最後の第5章「自己との対話」で紹介される作品たちも, どこか奇妙で現実離れした不思議なもの.
最近(2015, 2016)の作品のなかで, 力強く立派に描かれる動物の姿が心に残った.

常設展では迫力満点のダリの彫刻作品や絵画も多数展示されている.
裏磐梯の雄大な姿とともにゆっくりと楽しめる空間だった.

(写真は「ヒロのお菓子屋さん」の花豆もんぶらん , 裏磐梯の青沼. 光の具合で水の色が変わって, とっても綺麗でした)

8/06/2016

秋田

酒田から秋田へ.

途中, 由利本荘で朝ラー.
お目当ての「松韻」さんには間に合わず, もうひとつ気になっていた「清吉そば」へ.
8, 駐車場はすでに満車….
すごい盛況です.
中華そばを注文.
甘めのスープに甘いメンマ, コリコリの鶏肉が美味しい.
お隣の人が頼んでいたのを真似して天かすをお願いすると, これが甘目のスープにまた合う!

鶴の湯へ.
白く濁った, 四つのお風呂.
お湯はとろとろで保湿効果抜群(汗が…)!
お昼近くなるとお客さんはどんどん増えて行きました.

黒湯温泉へ.
鶴の湯よりもさらに山深いところへあるお風呂.
まさに秘湯といった感じ.
木陰は風がすっと通って気持ち良かったです.

秋田市へ.
秋田県立美術館をゆっくりと観たあと, 今日が最終日の竿燈祭りへ (何十年ぶりの竿燈でしょうか…).
ご当地グルメフェスティバルで, 横手焼きそば, 本荘ハムフライ, 横手お好み焼きよこ巻き(!)を食べながら開演を待ちます.
それにしてもすごい人!

竿燈大通りへ移動して, 道路へ座って見物.
間近で見るとものすごい迫力!
足されてどんどん長くなる竿に手に汗握りながら「どっこいしょ~, どっこいしょ~!」と掛け声をかけていました.
道路をずっと見ていると, 本当に金色の稲穂が揺れているよう.
20時近くになると涼しい風も吹いてきて心地よかったです.


(帰りはもちろん, ババヘラアイスをいただいてきました)

秋田県美 「異界をひらく」展


異界をひらく:百鬼夜行と現代アート
2016.07.16 - 09.04 / 秋田県立美術館

1会場, 山本太郎「白線散華図」の白線にいざなわれた先に現れるのは, 鴻池朋子(秋田出身)の「Dark Crow.
襖いっぱいに描かれるのは目力満点の半獣だ.
最初からインパクトたっぷりに展示は始まった.
山本太郎の「白梅点字ブロック図屏風」も面白い.
屛風絵なのだが, 銀地の背景に展示ブロックの上を法師が歩く図.
展示ブロックという現代的なモチーフが持ち込まれ, 空間が異化する様がなんとも不思議だった (以上, 第Ⅰ章「異界への扉」).

第Ⅱ章「迫り来る異界の景色」は, 三瀬夏之介の14mを超える巨大作「空虚五度」からスタート.
細かな濃淡で3Dのように立体感がある作品だった.
巨大な白無垢に不釣り合いに不気味な刺繍が施された鴻池朋子による「白無垢」も印象的な作品だった.

第Ⅲ章「現実と異界の狭間で」においても, 異界との境界がさまざまに描かれる.
真島直子「JIGOKURAKU」はとかくグロテスクな作品.
繊維にまみれた無数の巨大な鯉たちが床に置かれ, 天井から吊るされ, 泳ぎ回る.
それとは裏腹に, 画面いっぱい病的に(草間彌生作品を思わせる)書き込まれた鉛筆画が背面に掲げられるのだった.
「通りものの路」をはじめとする岡本瑛里の作品では, 不思議な生物が連なり渦巻く様が描かれる.
そして藤浩志「i-doll arrangement」では多数の人形が葬られる.
それを取り巻くのは, 可愛らしいその目とは裏腹に獲物を狙うハイエナのような動物たち(かつて えずこホール「十年温泉」で展示されていたものか)なのだった.

2会場のはじめ, 第Ⅳ章「異界を旅する子どもたち」では, 石田徹也作品が展示される.
巨大な蜘蛛に襲われている二人の男を描く「不安な夢」, ミシンが左腕と化してもなおマークシートを埋め続ける同じ表情の男たちを描く「無題」, 小学校の校舎から飛び出した頭をもつ大きな男を描く「囚人」, リフト式のトラックの荷台から無理矢理起こされる少年を描く「起床」, 車のサイドミラーに映り込む無表情な少女の半顔とそれを(?)のぞき込み魚の目が印象的な「深海魚」, 体一面に女(母?)の顔を浮かび上がらせながらも穏やかな表情を携える男を描く「転移」, 部屋の中に横たわる男の周囲や内部を電車のプラレールが走り廻る様子を描く「捜索」など, はじめて実際に観る作品の数々.
以前, NHKの日曜美術館で観たときとは全く違うインパクトがあり, 前に立つとガツンと来る作品の数々だった.
他にも, 藤田嗣治の「四十雀」のシリーズや, 不満げな表情でバットを持つ少女を描いた奈良美智の「サイレント・ヴァイオレンス」などの作品も展示されていた.

3階の第3会場は, 第Ⅴ章「異界を彩る妖怪たち」からスタート.
江戸後期の「百鬼夜行絵巻」(作者不詳)などと天野喜孝「百鬼夜行」に続いて展示されるのは金子富之の写真を加工した作品たち.
モノクロの作品がもつ雰囲気に, どこか違う世界へ吸い込まれそうになる.

最後の展示室, 第Ⅵ章「心の闇にひそむ異界」では金子富之による日本画が並ぶ.
先の写真作品とは全く違い, 直接的なインパクトのある作品たち.
「小雨」や「現代持衰」, 「千年狐狸精」はそれぞれ座敷童と狐狸(?)が画面に大きく描かれる背景に, 細かい字でびっしり不思議な文章が書かれる.
「首かじり」は生首を食らう化け物を描いた軸.
その隣に展示される「蚯蚓の怪」は, 体中から飛び出す無数のミミズと, それを食べる一匹のモグラを描く.
いずれの作品も, 絵の前に立ってじっと眺めていることが難しいほど恐ろしい作品.
その作品がこんなにも並ぶインパクトはかなり大きい.

第Ⅶ章「死という名の異界」では, 山口晃の2つの「九相圖」と松井冬子の作品7点が展示される.
山口晃の一つ目の「九相圖」(2015)で描かれるのは男女の不思議な物語.
これは想像だが, 余命宣告をされ自分自身のAIをつくった男と, 彼がつくった女のAIとの物語か….
「九相圖」(2003)は中世日本, 洛中洛外図のような雰囲気をもつ作品.
可愛がられ, そして朽ち果てていく半機械半馬の物語.
「馬とバイクという、生物と無生物とが合体した乗り物の生と死、そこから野に朽ち果てていく循環の物語」(作品解説より)なのだという.
過去と現在, そして未来が混ざり合った不思議な世界が提示される.
松井冬子は本日アーティストトーク(「美術の構築」)も開催され, 作家本人の話を聴くこともできた.
一見グロテスクな作品の数々について, 時間をかけて下図を丁寧に描く仕方など, その制作方法や過程についてスケッチなどを多数交えながら紹介されたが, 「(自分は)内臓は書くけれども血は書かない」(血が付くと途端に物語が出来てしまうから)といった裏話も聴くことができた.
今回の展示では彼女の「九相図」より3作品が展示されているが, 九相図について, 「女は死んでも綺麗だ」という信念から, 「平成の九相図」を描こうと取り組んだのだという.
「應声は体を去らない」は, 死に絶え, 内臓が飛び出した女のうえに白い花びらが散り積もる作品.
「転換を繋ぎ合わせる」は骸骨になった女のまわりに咲く花が描かれる.
綺麗に咲き誇る花と骸骨の中を這う蛇の生命力の美しいこと.
「四肢の統一」は背骨と骸骨だけになった人間を描く.
3つの作品とも, 松井の手にかかれば, 死は恐怖ではなく美へと転換される.
不思議な錯覚に囚われてしまう作品だった.
身体を鳥や犬に啄まれる女を描く「終極にある異体の散在」は, 以前横浜で観たときと違う印象を受け, 人間も自然の一部なのだという素直な感想をもてた.
そして, 最初に展示されていた「健全な自己治癒の方法」(消え入りそうな朧気な花)や「優しくされているという証拠をなるべく長時間にわたって要求する」(脳みそのような形の花), 最後に展示されていた「この疾患を治癒させるために破壊する」(水面にうつる巨大な夜桜)で描かれる, 静かだけれどもそこにあるたしかな生命力(とその痕跡)のようなものが心に残った.
それが, 彼女が描く美の正体なのかもしれない, とそんなことを思った.

(写真は昨夜お邪魔した酒田市「久村の酒場」. 揚げげそセット(揚げたあぶらげと げそのセット)が大好物. ちなみに昨夜の酒田は甚句流しでした. 東北は夏祭りの季節です)

7/27/2016

福岡伸一 芸術と科学のあいだ


福岡伸一 (2015). 芸術と科学のあいだ. 木楽舎.

key words:ヴィレンドルフ村のヴィーナス (182), ファーブルの言葉(:272

日本経済新聞において2014216日から2015628日までの間に掲載された記事をまとめた一冊.
著者は「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書)などのベストセラーで知られる生物学者であるが, フェルメール好きとしても知られており, 芸術にも大変造形の深い人物である.

話題は多岐にわたって面白いが, 前半では米国に滞在し研究留学生活を送っていた時期に出逢った数々のアート体験について述べられる.
美しい写真や絵とともに, 文章がキラキラと読み手の中へと入ってくる.
後半では, フェルメールをめぐる話のほか, 科学の世界に見られるアート, そして現代アートについて話が及ぶ.
著者の芸術についての豊富な知識量に驚かされる.

「はじめに」で福岡は, 生物学をはじめとする科学においては, アーティスティックなセンス, つまりは秩序があるところにうつくしさを感じるセンス(:2)が要求されるという.
そして, 科学者と芸術家は, 「方法こそ異なるものの」, 「たえなまく移り変わりゆく動的な世界のあり方をなんとかして捉えたい・書き留めたいという」同じことを希求していたという (7).
そして, たとえば染色体が正しく分配される方法を「それはまるで名うての手品師が、トランプの札を何度もシャッフルしたあと、二つの山にわけてみせるとあら不思議、一方に黒札だけが、他方に赤札だけが集められているような、そんなアーティスティックなまでに鮮やかな手際なの」だと評したりするのだった.

芸術と科学のあいだ.
そこには大変スリリングで魅力的な世界が広がっている.

(写真は仙台市「かつせい」の特ヒレカツ. 最近もりもり肉食ばかり…)

7/26/2016

野平一郎 作曲から見たピアノ進化論


野平一郎 (2015). 作曲から見たピアノ進化論. 音楽之友社.

key word:ピアノ

本論はピアノの誕生からはじまり, 前半では大バッハ (もっとも彼はピアノとの関わりをほとんど持たなかった(:26)が), 当時のウィーンのピアノが原動力となり「うた」に溢れた数々の作品を書いた(:55)モーツァルト, 最後の一連のソナタがその後の音楽史へ多大な影響を与えた(:72)ハイドン, 鍵盤の重いエラールのピアノを所持したことで「ワルトシュタイン」や「熱情」などの作品を生み出した(:73)ベートーヴェンなどについて書かれる.
その知識と調査量の豊富なこと!
ピアニストとしての視点と学者としての視点を両方持つ筆者ならではの文章が続く.

中盤は, 「連続する分散和音、果てしのないオクターヴ、どこまでも続いていく反復音等々を冷徹に使用し、それが劇的な表現と結び合わされることによって、それまで考えられなかった技術」を開拓した(:92)シューベルト, ピアノの歴史やピアノ作品の歴史の幅をさらに広げた(:98)ショパンとシューマン, その人間(キャラクター)と作品とでもって「ロマン派」を体現した(:115)リスト, レガートや複数の音楽的要素を弾き分ける指の独立した技術などを求めた(:122)ブラームス, そしてフランスにおけるサン=サーンスやフランク, フォーレ等による国民音楽協会の活動(:128)などに話がおよぶ.
中でも, フォーレの音楽についての記述には共感できた.

野平はいう.

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澄んだ水が常に流れているような感覚、新鮮な和声、旋法的な響きの扱い。一瞬一瞬の複雑な響きを仕分けながら、全体に「水を流して」いく作業は、それまで以上に繊細なペダルの踏み方をもたらした。ピアノの音に対して今までとは異なる光の当て方が求められたので、上から下までの音域を扱うバランス感覚が一変する。彼のピアノ音楽は、まだまだロマン派の作品に影響された旋律と、和声が作る伴奏音型の世界にとどまっている。しかし、その旋律線はそれまでにない輪郭を持ち、伴奏音型は繊細さを究め、これも和声との関係で新鮮な動きを見せる。(:131

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ここでも(フランスで勉強した)ピアニストならではの視点が説得力を与えるのだった.

その後, 野平は「それまでの音楽の流れを根本的に変えてしまった」(:133)作曲家としてドビュッシーを紹介する.
「調性、教会旋法、教会旋法ではない彼独自の旋法、全音音階、五音音階、半音階中心の和声、四度和声、平行和音などのさまざまに異なった音組織は、その中の一つが主張することなくすべてが巧妙に混ぜ合わさっている。そのブレンド具合は、ドビュッシーという一人の天才の耳が聴き取った結果であり、この時代のフランスでしか可能ではなかった。」(:136)とし, 「前奏曲集第二集」を楽器の響きという点からピアノ史を通じてもっとも先鋭的な作品と評し, 「十二の練習曲」や「白と黒で」をピアノ音楽が到達した最高峰の一つ(:138)と評するのだった.

さらに本書は, ピアノによる「ハーモニックス奏法」を生み出した(:148)シェーンベルク, 「半音階を中心とした高度に抽象的な音楽と、より全音階的な、国民的で具体的な音楽との間に融合点や矛盾点を見出そうとしながら生きた」(:156)バルトーク, 遅れてやってきた「ロマン派」であり神秘主義の作曲家である(:161)スクリャービン, ピアノを楽器の底から鳴らす一つの有効な方法論を提示(:162)したラフマニノフ, そしてプロコフィエフとストラヴィンスキーを紹介する (プロコフィエフとストラヴィンスキーについて野平は, その最良の作品としてプロコの「第二ピアノ協奏曲」(:164)とストラヴィンスキーの四台のピアノと打楽器アンサンブル, 独唱と合唱のための「結婚」(:165)を挙げている).

終盤には, 「楽器の新たな発展」と題して章を設け, 音域の拡張(ベーゼンドルファー)やソステヌート・ペダルの装着, プリペアード・ピアノ, 内部奏法 (特に厳密に書かれている一例として, 発音されなければならない音高(例えば第七倍音など)が厳密に指定されているジョージ・クラムの「マクロコスモス」(:176)が挙げられる), 自動ピアノや平均律以外の調律の可能性などについて述べられる.
また, 「前世代のドビュッシーやラヴェルに比べて、「もやもや」のない明確な音を志向」(:183)したプーランクをはじめとする六人組の作曲家や, 20世紀生まれのフランスの作曲家であるメシアン, デュティーユ, ブーレーズ (デュティーユとブーレーズについては, 両者の対照的な「ピアノ・ソナタ」を対比(:185)してみせる), 「八十八の鍵盤を集合論で扱うやり方(肉体を容赦なく駆使して全鍵盤上に散らばる音たちを制御しなくてはならない)」(:189)を検討したクセナキス, そしてトリスタン・ミュライユ (「忘却の領土」(:190))が紹介される.
さらには, ブルガリア出身のブークレシュリエフ(「アルシペル(群島)」シリーズの第四番)やポルトガル出身のエマヌエル・ニュネス (「火と海のリタニ」), フィリップ・マヌリ (「東京のパッサカリア」など), ユグ・デュフール (「馭者クロノスに」(:191)など), エリオット・カーター (「十二のエピグラム」(:194)など), 「何事にも人並み外れた壮大な計画を持ってのぞむシュトックハウゼン (19曲の「ピアノ曲」(:195)など), 戦後「ダルムシュタット楽派」のルイジ・ノーノ (ピアノとテープのための「苦悩に満ちながらも精朗な波…」(:197)など), 「ソステヌート・ペダルの効果的な使用を追求した」(:同)ルチアーノ・ベリオ (「セクエンツァ」のシリーズ), 「ピアノを表層的に扱うのではなく、鍵盤での表現をより深く究めた」(:198)ヘルムート・ラッヘンマン (クラリネット、チェロとピアノのための「アレグロ・ソステヌート」), 「現代のモーツァルトあるいはミヨーとも言える超多作家である」(:199)ヴォルフガング・リーム (Nachstudie」など), 「通常の鍵盤奏法の中で新しいピアノの響きを模索している点で注目される」(:同)ベアト・フラー (Melodie Fallend」など), オーボエのヴィルトゥオーゾとしても有名なスイスのハインツ・ホリガー (シフに献呈された「パルティータ」(:200)など), ハンガリー生まれのペーター・エトヴェシュ (二台ピアノ、三人の打楽器、シンセサイザーによる「六人のためのソナタ」(:同)など), 「すべてがセリー技法の複雑化によって制御された世界」を書いた(:201)ブライアン・ファーニホゥ (Lemma-Icon-Epigram), サルヴァトーレ・シャリーノ (ピアノとオーケストラのための「Recitativo oscuro」(:同)など), フィンランドのマグヌス・リンドベルイ(「Twine」(:同))など, 20世紀後半以降の作品が次々と紹介される.

また, 続く「日本のピアノ作品」と題した章では, 滝廉太郎の「メヌエット」や「憾」を, 「ほぼ日本初のピアノ曲と言ってよいだろう」(:203)と紹介する.
そして, 「十二音技法と雅楽という斬新なドッキングによるスタイルを確立し、国際的な地位を確固たるものとした」(:204)松平頼則(「越天楽による主題と変奏」など)や「武満の師でもある」(:同)早坂文雄(「ピアノ協奏曲」)を重要な作曲家とする.
武満徹については, 「ピアノ・ディスタンス」を高く評価し, 次のようにいう.

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《ピアノ・ディスタンス》におけるピアノの用い方は、それまでの西洋や日本のさまざまな扱い方とまったく異なるユニークなもの。音響としての単音、旋律の断片、オブジェとしての和音、こうした構成要素が弱音の多様なニュアンスを生み出す。しかし曲の中間で、驚嘆すべき和音のパッセージがやってくる。最弱奏で始まる密度の濃い和音は、次第に強さの極点へと至る。武満の六〇年代後半の管弦楽作品に必ず見られる、あのノイズへと至るクレッシェンドの原型が、ここにある。(:205

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そして「武満のピアニズムは、その後ドビュッシーやメシアンの影響が色濃いものとなり、国際的名声を反比例して初期の驚愕するような想像力は消えていく。」(:同)とし, 5060年代の作品を評価するのだった.
その他にも, 「六〇年代のピアノ作品で探究されつくした感がある「内部奏法」への決別、再び「鍵盤」に戻って、そこでどういう新しいことができるのかを追求した作品」(:206-207)である湯浅譲二の「オン・ザ・キーボード」や, 「新たなピアノの不可能性ともいえる書式を創造」した(:207)一柳慧の「ピアノ・メディア」や「タイム・シークエンス」を, 日本の作曲家による重要な作品として挙げる.
また, 192030年代に生まれた作曲家の中から, 「現代音楽だけではなく日本各地の民謡、世界各地の民族音楽や前衛ジャズなど、複数ジャンルの影響を見せるピアノの使い方が独特」な間宮芳生(「ピアノ・ソナタ」第2番など)や, 「西洋の現代音楽の動向に影響を受けた《スペクトラ》シリーズが重要な」松下眞一, 「類例のない音楽の持続力が鮮烈な印象を与える」松村禎三 (「ピアノ協奏曲」など), 矢代秋雄 (「ピアノ・ソナタ」や「ピアノ協奏曲」), 三善晃 (「シェーヌ~ピアノのためのプレリュード」や「アン・ヴェール」), 林光(:208-209)の作品を, 「日本のピアノ史に名を残す作品」(:208)として挙げる.
この他にも, 三十年代生まれの世代から多くの日本人作曲家が紹介されるのだった.

最終章である第28章は「ピアノ進化論の最後に」と題して, 「国際化」という名の下に, より機能的だが没個性的な楽器が求められ, 世界中のコンサートホールにスタインウェイとベーゼンドルファーのフルコンサート・グランドピアノが常備されている事態を指摘する (213).
さらに野平は, その画一化は教育機関やコンクールの現場でも進んでいることを指摘する (215-216).
そして, 「まず音楽大学で学び、国際コンクールで入賞を経てピアノストが生まれるという、あらゆる面で構造化されたピアノ界から、今までにないタイプのピアニストは本当に生まれるのだろうか」(:216)と疑問を呈し, 「こうした構造化した世界に風穴をあけ、そこから逸脱した存在や強力なイマジネーションをはぐくむことが求められている」(:218)とするのだった.

本書は, 月刊誌「音楽の友」で20101月から20123月まで連載された記事に加筆修正を施したものだという.
下手な音楽史の教科書よりもずっと分かりやすく (!), 読んでいてしっくりくる内容だった.

(写真は米沢市・米沢牛亭「ぐっど」のヒレステーキ. 肉厚, 柔らか, 満腹!)