12/28/2014

山形テルサの第九


山形テルサの第九
2014. 12. 28, 3 pm start / 山形テルサホール

今頃になって, 初めて聴いた山響・第九.

編成の小さいオケで, Vnも一人ひとりの音が聴こえてきて素朴でいい (対面配置, 1st Vnの後ろにコントラバス. 2nd Vnの後ろにティンパニ・打楽器, フロア下手から1st, チェロ, ビオラ, 2nd. その後ろに下手からHn, Fl, Cl, Ob, Fg, Tpと並び, Tpのさらに後ろにTbという配置).
なんとも人間的というのが音を聴いた第一印象.
そんなオケを前に, 指揮者・飯森範親は暗譜で, 力強い棒を振った (一番前の席(そこしかもう残っておらず…)で聴いたのだが, ブレスによるザッツの合図も迫力満点だった).

第二楽章ではオリジナル楽器のティンパニがこれまた素朴で, いい雰囲気を出す.
硬いマレットでカーンと叩かれ, まさに「太鼓」という感じ.
プレトークでもあったとおり, 前半と後半で叩き方を変えて(ターンタタと4回繰り返される部分, 後半はだんだんdim. で)演奏された.

チューニングを挟んで, 第三楽章の開始.
冒頭の木管アンサンブルが極上でとろける.
後半, 弦は弓を置いてのpizz.
Hnが高らかにうたって, 遥か天上を揺蕩う.
途中で管を抜き差しするオリジナル楽器のトランペットはなかなか大変そうだった (後日松岡先生から聞いた話では, 平均律に慣れている耳にも不自然でなく聴こえるよう穴が空けられていて, 調律を微調整できるのだそう).

第三楽章のあと, パーカッション(Cym, B.Drum)と合唱隊の入場.
もう一度チューニングを挟んで, 第四楽章のスタート.
やはり木管アンサンブルが美しい.
一方で, 弦はザッツ・ピッチの乱れが気になってしまい, もっと大きな一体感・うねりを聴きたい…とも思ってしまう.

第四楽章は聴いているとやはり色々と思い出されて来て, 執拗に繰り返される感動のストーリーに まんまとやられてしまう ().

…と, 憎まれ口をたたきつつも, 演奏は本当によかった.

ダブルバスーンが登場し, ナチュラルトランペットが腰に手を当てながら高らかにテノールソロと掛け合う.
バリトン(大西宇宙)がとにかくbravo.
明るく, 凛々しく, たっぷりと歌い上げた.
合唱隊もbravi
大迫力で素晴らしいクオリティー (前日のカルミナも是非 聴きたかった!).
特に大フーガが圧巻だった.

こんなに集中して第九を聴いたのは久しぶりだったかもしれない.
あっという間の70分間だった.

アンコールは「蛍の光」(12番+3 をハミング).
合唱隊の手にはキャンドルの火が灯り, 年の瀬, 一年の締めくくりを演出した.

終演は16時半.
さて, 今年も間もなくおしまいです.

12/21/2014

東浩紀 クォンタム・ファミリーズ


東浩紀 (2009). クォンタム・ファミリーズ. 新潮社.

key words:エヴェレット=クリプキ=シェン関数, 貫世界通路, 検索性同一性障害, 35歳問題

小説は, 主人公の男性・葦船往人がテロ未遂の容疑で逮捕されたという記事から始まる (資料A).
続いて, おおしまゆりかという女性のフリー百科事典「ウィキペディア」(最終更新:二〇三一年二月二八日)の記事が紹介される (資料B).
そして, 「葦船往人の網上地下室」と題された, おそらくblogか何かの記事であろう哲学的な文章が紹介される (資料C).
いったいこれはなんだろう, なんのことだろう…, と思いながらページを捲ると, 物語は「ぼく」(葦船往人)の独白からスタートするのだった (第一部).

二〇〇七年の夏, 「ぼく」は奇妙なメールを受け取る (30).
それは娘からのメールだった.
だが, 40歳になる妻・友梨花との間に子どもはなく, 娘からなどメールが来るはずはなかった.
しかし, そのメールの差出人はぼくの娘だと名乗っており, そこにはこれは未来からのメールなのだと記されていた.
ぼくは, それは狂った自分が自分に宛てて書いたものだと理解する.
二〇〇八年の三月二一日, 三五歳が終わり, 人生の折り返しを過ぎた誕生日の早朝に,「ぼく」は娘からの一〇〇通目のメールを受け取る (33).
それは自分との面会を希望するものだった….

その後, 二〇二三年には並行世界の存在が明かされたことが告げられる.
そして, 楪渚(ゆずりはなぎさ)の登場(:103)や大島理樹の登場(:129)を経て, 物語は複雑さをどんどん増していく (風子(2035年の並行世界)が汐子誕生の謎を告白するシーン(:193)は, 何度もページを読み返さなければならなかった…).

登場人物の名前と人格(時代)を一致させるのに一苦労しながら, なんとか迎えたラストでは, 友梨花の独白がつづられる.
そして物語は演劇的な昂揚感を保ちながら, 主人公・葦船往人の死をもって終わるのだった.

拡散する量子家族.
最後に往人はどんな風景を思ったのか.
そこに居た家族はいったい誰だったのか….
最後は切ない終わり方だった.

終盤, 話がややこしすぎて, 小説を読む流れがストップしてしまった.
これが狙いなのかもしれないが, それにしても分かりにくい世界の繋がりだと感じてしまう.
設定や, ややこしい用語や人物の名前が小説を必要以上に複雑にしてしまっている.
だがしかし, その設定や名称がこの小説の魅力でもある.
現実にはありえないSF, といってしまえばそれまでだ.
しかし, 全くの夢物語ではなさそうだと読み手に思わせるのはやはり書き手の筆力だし, 想像力である.

言葉を仕事の道具としている人の小説…, そんな読後感があった


12/13/2014

よしもとばなな 鳥たち


よしもとばなな (2014). 鳥たち. 集英社.

key words:気体に近い野菜, カチナロックと呼ばれる岩山, 末永教授

十数年前, 「ハチ公の最後の恋人」になんだか息が詰まってしまって (どんな話だったか正直忘れてしまったのだけれど…), それ以来ずっと読まずにいた よしもと(吉本)ばなな.
それが今年, 引越の荷物整理をきっかけに「キッチン」を読み返してみると, すっと水を飲むかのように綺麗な物語で, なんだかいいなぁと思っていたところに青葉市子さんがライヴで本作を紹介されたことなどが続いて…, 読み始めた一冊.

小さいころ, それぞれの母親と大切な人を(ほぼ)一度に失った まこと嵯峨.
物語の前半を占めるのは, そんな二人の「いきのこり」という感覚だ.
自殺という形で母親を失い, この世にはもう自分と嵯峨の二人しかいないと思う まこは, 過去に強く囚われながら生きている.
「どんなに確かに見えたものも簡単に、あっという間になくなる様を私たちは見すぎてしまった」(:25)と, 日本に帰ってきて大学生となっても世界を信じることができず, 信じられるのは嵯峨だけだと強く思っている.

そのため, まこは子どもが欲しいと頻りに嵯峨へ告げる.
その背景には, どうしようもない寂しさ, あるいは嵯峨との繋がりの保障, そして母親(たち)の生まれ変わりを産まなければという気持ちがあるのだった.

そんな まこに, 大学のゼミの末永教授があたたかく, 優しく語るシーンがある.
「もう、これまでの物語を忘れて、今の自分たちの物語を普通に営んでいいと思う。もちろん、墓守として愛した人たちを悼みながら」(:175)と.
その言葉に まこはこう応える.
「今、はじめてほんとうに理解しました。過去は過去だということを。そして、単純に過去の上に今があるのではないということを。もっと、立体的な……鳥が俯瞰するみたいな、そんな気持ちでした」(:同)と.
素敵な言葉に包まれた, 印象的なシーンだった.

そして, 世界には自分と嵯峨しかいないと思っていた まこが, 日常の何気ない生活や優しい人たちとの関わりを通じて, 次第にそんなことはないのだと気づきながら未来の話を始めるラスト(:196 - 201)はなんとも爽やかで, 光に満ちていた.

よしもとばなな あとがきでこう述べる.

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多分この小説は、昭和の偏屈なおばさんから平成の偏屈なおばあさんへと移行していく過程での私が全身で見聞きした「日本が病んで終わっていくことに抗う表現を細々と続ける」全ての表現者への「応援そして評論」のようなものなんだと思っています。(:204

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ダ・ヴィンチ(12月号:55)では「自分の読みたいものを書くという新たなジャンルに突入」して書いた小説だ, とも言っていた よしもとばなな.
歳を重ねたうえでの応援.
詩のような, やわらかい絵のような…, そんな作品だった


12/07/2014

藤田嗣治と土門拳の交差


藤田嗣治と土門拳の交差:時代をともにした二人の視線
2014.11.08 - 2015.01.18 / 秋田県立美術館

パリから帰国した藤田を, 1941年から彼が再び離日するまでの8年にわたって撮影した土門.
そのときのモノクロ作品が20点ほど展示されていた (3階展示室. この他に「世相」や「室生寺」, 「文楽」など土門の作品も合わせて展示).

絵を描く技法について秘密主義だった藤田も, 土門には被写体として自分を差し出していたのだという (展示解説より).
その証拠に「粋なズボンにメキシコ風帽子で」と題された下六番町のアトリエで撮影された写真には, 上半身裸でお茶目なポーズを取る藤田が写されている.
二人の信頼関係が見えるような作品だった.

時代は戦争真っただ中.
アーティストたちはいったいどんなことを想っていたのだろうか.
ファンキーな藤田の姿をよそに, そんなことを考えてしまった.

ところで, 同美術館の2階展示室に大きく掲げられている藤田の壁画「秋田の行事」.
竿灯祭りの勇壮な姿を中央に配置し, その左右に秋田のさまざまな風俗を描いた大作であるが, この絵の存在感が想像以上に大きかった.
秋田の資産家・平野政吉の米蔵一面を使い, 15日間で描きあげられたのだという勢いのある作品.
螺旋階段を上がった先に見えるその光景が, とても印象的だった

11/29/2014

三島邦弘 失われた感覚を求めて


三島邦弘 (2014). 失われた感覚を求めて:地方で出版社をするということ. 朝日新聞出版.

key words:出版社, 編集者, 身体感覚

ミシマ社の本社がある東京・自由が丘とは全くの別世界, 京都府の城陽(五里五里の里)にオープンした「ミシマ社城陽オフィス」.
本書の前半ではこの城陽オフィスをめぐる様々な出来事(デッチ(住み込みのインターン)の募集から「ミシマ社の本屋さん」の開店, 「関西仕掛け屋ジュニア」との出会い, 店番をすることで初めて経験した「お客さん」との出会い…, など)が綴られる.
その場面がふわっと想像できるような, 面白い話が続く.

だが, 城陽オフィスはスタートから1年半弱でその活動に終止符を打つことになる.
いいことばかりに思えた城陽プロジェクトだったが, 「流れていると思っていた流れは、表面でしかなかった」(:64)のである (「ひとりのお客さんも来ない日々。来ない電車。著者の方との打ち合わせをたった一人ともおこなえないで終わる一週間。調べものがあっても街中へ出るのに一時間……。自由が丘メンバーとの情報共有の困難さ。切れる音声、切れるスカイプ映像。切れるぼく」(:同)).
城陽プロジェクト終了の一番の理由は, 「現場に、最前線に、立っていない」(:158)ことが生むストレスだった, と三島は振り返る.

そうして三島は京都市内へとオフィスを移す.
本書の後半では, 再び回り始めた編集者としての仕事(「寺子屋ミシマ社」のはなしやメルマガ「みんなのミシマガジン」の創刊, 「シリーズ 22世紀を生きる」など)が綴られる.

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読み手の想像力に結びついたとき、たった一文字であってもとてつもない広大な世界を与えることだってできる。そういう可能性をもった世界のなかにぼくたち(本の仕事にかかわる人はもちろん、本を読むすべての人たち)は身をおいている。(:2

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「はじめに」でこういっていた三島.
本書の終わりではこうも続ける.

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編集やメディアの役割は、よく誤解されがちなのだが、「発信」ではない。くり返すが、あくまでも「媒介」である。自分発信に走ればかえって主体は遠ざかる。自力で全てを動かしてやろう、そういう自意識ほど自然からはるか遠い行為はない。(:257

身体が真っ白になる。能楽におけるワキが、あるいは編集者が、そうであるように、そこにいながら、そこにいない。そして、そこにいないが、そこにいる。このような身体性を刻々と生成しつづけたい――。(:258-259

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仕事への愛が伝わってくる一冊だ.  

11/21/2014

日食なつこ 視力検査ツアー


日食なつこ 視力検査ツアー
2014.11.21. 7 pm start@仙台retro Back Page

日食なつこ, 1年半ぶり・全国7カ所の公演となるワンマンツアーは, Drkomaki)との2人編成で届けられた.
仙台の会場となったのはBack Page.
茶色のスタインウエイを日食なつこはまさに全身全霊で弾いた.

ライヴは「少年少女ではなくなった」(「オオカミの二言」)のアカペラから力強くスタート.
さっきまでの華奢な体は, ピアノの前に座った途端 別なものへと変わった.

アルバム「瞼瞼」の収録曲全てのほか, 「跳躍」や「傘はいらんかね」,floating journey」など, 初期の作品も歌ってくれた.
「傘はいらんかね」は16歳のとき, floating journey」は17歳のときの作品だという.
6, 7年と大切に歌ってきた曲なんだなぁ, と感慨深かった.

日食なつこは色々な感情を歌う.
そしてピアノもまた色々な音色を奏で, それは歌と同じくらい, あるいはそれ以上にさまざまに語る.

ライヴは, アンコールに「ビッグバード」と「10円ガム」が明るく歌われて終演(2045分)となった.

ところで, 今回のツアータイトルである「視力検査ツアー」.
「瞼瞼」にちなんでという意味と, もうひとつ, 心の視力が落ちてないか, 大事なことを見落としてないか, というメッセージが込められているのだという
厳しく切ないテキストが並ぶ彼女の音楽だが, やはり根底にあるのは人間へのあたたかい心なのだ
それが, 彼女の音楽が気になって仕方のない理由なのだと思う.