12/29/2013

角田光代 曾根崎心中


角田光代 (2012). 曾根崎心中. リトルモア.

key word:のどに小骨が引っかかったような気持ち(:159

文楽では絶対に感情移入しない(できない)と思っていた話を, ドキドキしながら泣きながら読んだ.
あぁ, そういう話だったのか, と改めて思うとともに, 私たちにそう思わせるような話に書き換えた角田光代の筆力に驚く.
これは近松門左衛門「曾根崎心中」の現代語訳などでは決してないのだ.

冒頭の観音めぐりの場面から, まだ19歳の初は純粋で健気だ.
徳兵衛との恋のことだけを, 死んでもいいほどの恋(:20)のことをただひたすらに考えている.
それは, のちに「知らなければよかったことだった。けれど知らないまま年老いて死んでいたらと思うと、ぞっとすることでもあった。恋とは。」(:152)と初に思わしめる, 恋だ.

物語の中盤, 初が徳兵衛との恋に落ちる瞬間の描写がある.

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その日から、すべてがちがって見えた。太陽も、空も、新地の町も、着物も、川も、橋も、おはじきも、鞠も、雨も、自分の顔も。目に映るものすべて、何ひとつ、よぶんなものがなかった。(:114

これが恋か。初は思った。これが、恋か。ほほえみながら、泣きながら、高笑いしながら、物思いにふけりながら、不安に顔をゆがめながら、嫉妬に胸を焦がしながら、記憶に指先まで浸りながら、幾度も幾度も、思った。これが、これが、これが、恋。(:115

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恋というものが初をどれだけ魅了したのかを存分に表している, 熱のある文章だと思う.

その文章に続いて, 騙された徳兵衛を縁の下に匿いながら, 初が心中を決意する(思いつく)場面がある

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自分でも驚くほどすんなりと、初はそれを受け入れた。いっしょに死のう。徳兵衛の、言葉ではないそのひと言を胸の内で転がすと、なぜだろう、安堵すらする。そうなればもう離れることはない、会えずに不安に思うことはない、ほかに心を移したのではないかと疑うことも、もうしなくていいのだ。それにぜんぶ片がつく。徳兵衛がほかの女と夫婦になることもない、わたしが田舎ものに嫁ぐこともない。二貫の銀を作らなくてもいい、年季がいくら残っているか毎晩のように勘定しなくてもいい。年の瀬の払いを、必死になって馴染み客に無心しなくてももういいのだ。そうか、そうすりゃぜんぶまるくおさまるんじゃないか。(:129

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急に肝が据わる初の姿は, 読み手に強烈な印象を残して, またしてもこの恋の強烈な力を感じさせる.
少しの狂気と危うさを感じながらも, 読み手は初にすっかり感情移入してしまう.

読み手にそうさせる文章のリズムもまた素敵だ.
たとえば, 物語の冒頭はこんな文章から始まっている. 

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鳥の声がする。やがてしなくなる。入れかわるように、あたりの茶屋が戸を開け放つのが聞こえてくる。開け放たれた戸の奥からは、女たちが階段を上がり下りする音が聞こえてくる。(:3

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なんともない描写ではあるが, 角田光代の文章の独特なリズム感がそこにはある.
その魅力が一番出ているのはやはり, 初が心中を決意し天満屋を, 新地を飛び出す瞬間の描写だろう

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目に映るもの、ぜんぶ最後だと初は思う。振り返れば明かりの消えた天満屋。新地の店みせ。ところどころ明かりがついて、三味線の音が聞こえてくる。走れば過ぎていく光景は、まるでうしろに流れて消えていくようだ。見上げれば星がまたたいている。星も最後、夜も最後。(:146

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なんと美しい文章だろうか.
文字から拡がっていく世界, スピード, , イメージ.
これが小説というもの,
小説家が為せる仕事なのだろう. 

最後に, 読者がドキっとする場面がある.
「嘘をついているのが九平次ではなく、徳兵衛だということは本当にないだろうか。」(:159)と, 「わてはな、初。おまえに会うて、知ってしもうたんや。さみしいゆうことも、つらいゆうことも。それからこわいゆうことも。またひとりぼっちになってしもたら。そう思うと、初、おもえやさかい言うが、わてはこわいんや。」(:158)という徳兵衛の言葉とそのしずかな笑顔を見て初が感じる場面だ.
読み手はここで一瞬「なぜ, こんなことを書くのか…」と思う (思った).
それでも…, やはり初は, 死を選ぶ.
(もし徳兵衛が嘘をついていたとしても)「でも、なんだというのだろう?」(:161)と,その決意は固い.
そして, この場面が入れられることで, 読者はこの物語が最後まで初という女性の物語であったことを思い知るのだ. 
恋を信じて恋に生きた, 美しい女性の物語であることを (それに比べて男のなんと弱々しいことか…).

力強く, 粋な物語だった