東谷護編著 (2008). 拡散する音楽文化をどうとらえるか. 勁草書房.
key words:ポピュラー音楽, 音楽文化
続いて, 第Ⅱ部「ポピュラー音楽の〈過去〉とどう対峙するか」に含まれている4つの論文とコラムを読む.
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第5章 グローバル化にみるポピュラー音楽(東谷護)
東谷は, 場所や空間の捉え方についての人文地理学のモデルを援用し, ポピュラー音楽の特色を確認したうえで, 音楽のグローバル化を進める際立った媒介(=メディエーション)に着目しながらその問題を指摘しようとする (:111).
そこで指摘される問題とは, ポピュラー音楽のように商品として世界各地に大量配信される(:116)音楽は, 場所という固有性においては捉えることができない, ということだ. そして, 「場所」や「地域」の音楽を「空間」へと飛び立たせたシステムについて, メディエーションを主軸に添えた4つの時代区分(①五線譜が威力をもった時代, ②米軍基地が威力をもった時代, ③マス・メディアが威力をもった時代, ④マルチ・メディアが威力をもつ時代)ごと, 事例を中心に検討していく (:118).
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第6章 音楽言説空間の変容:価値増幅装置としての活字メディア(南田勝也)
商品としてのポピュラー音楽をアンプリファイ(価値増幅)してきた(:140)音楽雑誌は, どんな影響力を持ち, そしてなぜ衰退していったのかを問う南田は, ポピュラー音楽が「商品として生産され」ているにもかかわらず, ロック音楽など「ある種の音楽文化においては、強く商業主義を批判する言説が存在」(:134)すると指摘する.
それは(商品として生産・仲介・消費される音楽が、商業主義に敵対的なそぶりをとるのは)「非貨幣的な幻想(=価値)を産出する装置としての音楽関連メディアが、そのことを後押ししてきた」(:159)からだとする. そして, インターネット時代になり, これまで音楽関連メディアが醸成しアンプリファイしてきた価値は, ファン共同体が自律的に運営・維持するものへと変化している, とする (:同).
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第7章 「演歌」の誕生:「主流」と「対抗文化」の交差点として(輪島裕介)
輪島は, あるスタイルのレコード歌謡が「演歌」/「艶歌」として認識されてゆく過程を検証し, 日本のレコード歌謡に関する一定の歴史的な共通了解が形成されるメカニズムを描きだそうとする (:165).
つまり, 「一面では過去の恣意的な誤読」であった「演歌」のジャンル化によって, 「演歌的」なるものが以前から脈々と受け継がれてきたかのような歴史観が構築された(:166)ことに着目する. 輪島は, あるスタイルのレコード歌謡が「演歌」/「艶歌」として認識されてゆく過程を検証し, 日本のレコード歌謡に関する一定の歴史的な共通了解が形成されるメカニズムを描きだそうとする (:165).
輪島は「かつては主に西洋芸術音楽を指示していた「洋楽」の語が、ある時期から主に英語圏のロックやポップを指示するものへとその力点を変化させたこと」(:169)も指摘する.
また, 音楽的な面からも, 輪島が指摘する「日本のレコード歌謡を特徴付けてきた和洋折衷的な側面、つまりスウィング、ハワイアン、シャンソン、タンゴ、ラテン、ウエスタン、ロカビリーなど時々の流行の「外来」サウンドを無節操に取り込み、必要に応じて小唄、端唄、都都逸、民謡など既知の素材と混ぜ合わせてきた驚くべき雑種性」が「日本人の地」の純血性の主張によって不可視化された(:189-190)とする.
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第8章 ポピュラー音楽の〈リ〉サイクル:「甲子園」を読み直す(周東美材)
周東は, 「流行り廃り」で特徴づけられる「ポピュラー音楽」の中においても, 長い間歌われ演奏され続けてきた楽曲もあることを指摘する (:200-201).
そこで甲子園球場に鳴り響く音楽に着目し, ポピュラー音楽が人々にどのように享受されているのかを炙り出そうとする (:201). 応援に使用される楽曲にみられる「特定のパターンや「つかみ」が強調されて作られる」といった特徴や (:213), 「ヒット」時に演奏されるファンファーレに着目して (:221), 音楽の伝播, 継承, 変容を考えようとする視点はとても面白い.
※余談だが, 甲子園の応援に「友情応援」(吹奏楽部の遠征が困難な遠隔地や吹奏楽部をもたない学校の場合、兵庫県内の学校が代わって演奏する)という慣習がある(:227)ことを初めて知った….
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コラム ポピュラー音楽の体験と場所:もしくはローカルアイデンティティ(大山昌彦)
大山は,(脱地域的で「根無し草的」な文化であった)ポピュラー音楽が, ダンスという消費を通じてローカリティ(「その場所のダンス」, 「その場所の音楽」といったもの)を生み出す(:236)現象を, 「脱アウラ化された文化の再アウラ化ともいうべき体験」(:237)として指摘し, それは興味深いことだとする.
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いずれの論考でも, 「商品」として「産業的に」生産されるポピュラー音楽が, 商品であるからこそ, 作り手とユーザーとの関係の中で育てられ, 多様化していった様子が描き出されている.
その視点の定め方はとてもユニークだ. そして, その「つながり(メディエーション)」へ着目する視点のユニークさは, すべての音楽文化研究へと応用されるべきものである.
今や多くの音楽がメディアとして人と人, 人ともの, 人と場所を繋いでいるのだから.
拡散する音楽文化をどうとらえるか (双書音楽文化の現在)