松井冬子展:世界中の子と友達になれる
2011.12.17 - 2012.03.18 / 横浜美術館
画家はこう始める.
そして, そのプライベートな感覚である「痛み」を, 「視る」という行為によって解き放つことはできるのか…, と問う.
日常的に見間違いをしたり聴き間違いをしたりする人間にとって, 視ることを含めた「感覚」はすべてプライベートなものだが (わたしが視ているものとあなたが視ているものは全く違うものかもしれない), 画家はそれを自覚したうえで, 「ものではなくて感情」を描きたい(美術出版社 (2008). 美術手帳, vol.60 / no.903:41)といい, 自分の個人的な経験やトラウマを画に現わそうとする.
会場には多くの作品が展示されているが, 中でも「陰刻された四肢の祭壇」という大きな作品が印象的だった.
2メートルは超えているであろう絹本の大きな画面に描かれるのは, 剥がれ, 爛れ落ちた肉を纏っている女性だ. その片手には巨大な百合の花を, もう片方の手には胎児を持っている.
でも, そんな恰好で画面中央に立っている女性は, 自らの肉体に起きていることにはまるで気が付いていないように, とても穏やかな表情をしている.
うっすら微笑む顔も, 肉が剥がれ落ちた足も, 手のひらの胎児も, すべてその女性に所属するものであるはずなのに, まるで, 全く違うアイデンティティをもつもののようだ.
そう考えると, どこか不敵な冷笑を浮かべているように見えた女性は, あるがままの自分をただ単純に晒しているだけであって, まるで「それが何か?」とでもいわんばかりの無表情に見えてきて, 却ってぞっとするのは見ている(見せられ, 魅せられている)こちら側であったりするのだった.
美術手帖 2012年 02月号