2/16/2013

小山登美夫 現代アートビジネス


小山登美夫 (2008). 現代アートビジネス. アスキー新書.

key word:アートの価値?

村上隆のフィギュア作品が16億円で落札される(:66)….
そんな話だけがひとり歩きし, アート業界というと どこか得体の知れない奇妙な世界, というイメージがある.
筆者はそれらの「誤解」を解き, 「まさに「この閉鎖的な日本のアート業界を風通しよくしたい」と考え」(:5)この本を書いたのだという.

本書では, ギャラリストの仕事や, 村上隆や奈良美智などのアーティストらがどのように世界的なアーティストになっていったのかということ, そしてお金とアートの話(アートの価値はいったいどうやって決まるのか, ギャラリストとアーティストの共同作業とはいったいどういう意味なのか…)など, なかなか耳にすることができないことが紹介される.
読んでいて面白い.

特に印象的だったのは, 「日本をアート大国に:アートビジネスの展望」と題された最後の第5章だ.
筆者にとって日本は, 「アート好きな国民性と、発信するだけの文化とその表現能力が十分にあるにもかかわらず、国内の受け皿はまったく整っていないように」(:177)思われるのだという.
日本の雑誌に美術展の「レビュー」が掲載れることはまず無いし (179), 経済界との連帯感系もまだまだ無い(:182)ことを筆者は指摘する.
たしかに, アート大国になるためには日本ではまだまだソフト面での円熟さが足りないのかもしれない.

最後に, アーティストは万人受けするように媚びないこと, そして社会はアートを「消費する」のではなく社会に「残す」こと (192), それが大切だと, 小山は指摘するのだった.

※たしかに, ギャラリー タグボートのページは見ているだけで楽しいのです

(写真は仙台市「三吉」のおでん. にら玉が絶品)

2/08/2013

西島千尋 クラシック音楽は、なぜ〈鑑賞〉されるのか


西島千尋 (2010). クラシック音楽は、なぜ〈鑑賞〉されるのか:近代日本と西洋芸術の需要. 新曜社.

key words:鑑賞, musicking

2009年に筆者が金沢大学へ提出した学位論文にもとづいた(:219)一冊.
まずはタイトルにドキッとさせられる.
たしかに, なぜ音楽は, あるいは芸術は鑑賞されるのか.
聴く, 聞く, 観る, 見る, ではダメなのか….

「鑑賞」という言葉は, 明治の日本が芸術を輸入する際に, それを肯定することを前提としてつくり上げた日本独自の言葉だ(英語にも他の言語にもそれに当たる言葉はない)という (:「はじめに」より).
ヨーロッパで生まれた美学の分野に, 鑑賞という言葉は存在しない(:13)し, そもそも「音楽」が「きく」対象として集中して意識されはじめたのは19世紀中頃になってから(渡辺裕「聴衆の誕生」)らしい.
本書は, その「「鑑賞」という概念の変遷を通して、音楽が「きく」べきものとなり、また「わかる」べきものとなったプロセスを知ること」(:13)を目指す一冊だ.

「日本にだけある〈鑑賞〉という言葉」について述べられた序章に続き, 本書の前半では「鑑賞」という言葉やその周辺をめぐる言葉(享楽, 批評, 観賞…)の使用法の変遷をたどりながら, 日本独自の鑑賞のポジションが形成されていく過程が示される.

第Ⅰ章では, 明治期の日本が, 「高尚」な音楽によって「高尚」な国家を目指すため「芸術音楽」を輸入していく過程が描かれる.
当時, クラシック音楽は一部のエリートにさえ接触する場が限られていたものだったので, 関係者らは, 具体的に展開される唯一の西洋音楽の媒体である学校教育における「唱歌科」に, 「下劣」で「不健全」(!)な日本の音楽の追放を期待していた(:46)のだという.
その後, 音楽は次第に「きく」対象として意識されていくことになる.

第Ⅱ章では, 明治の唱歌教育から大正期の音楽教育への変化, 蓄音機やレコードの普及を背景に, 大正13年に日本で最初の音楽鑑賞教育書が出版される(:78)様子を描く.
芸術がもつ「美」の力が意識されるようになり, 明治には専門家の行為であった〈鑑賞〉が, 子どもたちにまで拡げられていく様子が指摘される.

第Ⅲ章では, 大正期に吸収された欧米の芸術教育思想が日本独自に展開されるようになる(:91)昭和の様子が描かれる.
「なぜ日本国家は、何もかもが「お国のため」で「贅沢は敵」という非常時に、クラシック音楽の〈鑑賞〉をすすめたのだろうか。」(:101
そこには, 「精神」に資することを訴えることで生き残りを図った(:113)「レコード」産業と, 児童・生徒の幸福は「きく」ことだと割り切られるようになった(:116教育方針の存在があるのだった.

第Ⅳ章から第Ⅵ章では, 戦後学校音楽教育の変遷が紹介される.
まず第Ⅳ章では, 「第1次学習指導要領(昭和22年)によって、後の日本の 世界に類のない徹底した鑑賞教育の基をつくった」(:124)諸井三郎の仕事について紹介される.
続く第Ⅴ章では第2次学習指導要領(昭和26年)について紹介される.
この時期においても, まだまだ鑑賞(音楽をただ「きく」, 「理解する」こととは違う, 精神活動としての〈鑑賞〉)の意義は浸透しておらず, それに鑑賞設備や方法の不備も重なり, 「〈鑑賞〉はあまり実施されなかった」(:147)という.
この状況が大きく変わるのは, 3次学習指導要領(昭和33年)からである.
第Ⅵ章では, 「試案」から「告示」に変わり法的拘束力をもつようになった, この第3次学習指導要領について紹介される.

3次学習指導要領では, 共通教材が指定されることになる.
「国家単位の鑑賞教材の画一化は他国にも例がない」(:154)のだという.
また, 3次学習指導要領では, 「歌唱」もしくは「歌唱」を含む表現領域よりも先に「鑑賞」の領域が記されている(:161)ことからも鑑賞が重要視されていたことが分かると指摘される.
しかし, 第Ⅶ章で示されるとおり, 鑑賞教育は失敗に終わることになる.
「何よりも失敗とされたのは、子どもたちがクラシック音楽を好きにならないということであった。」(:179
そして, 「クラシック音楽を愛好させられない音楽鑑賞教育は、鑑賞共通教材が廃止される第7次学習指導要領(平成10年)が施行される頃になっても失敗だと受け取られ続けた。」(:195
さらに, 国家がいわば強引に進めてきた鑑賞教育の弊害も, ここでは指摘される.
それは, 芸術が「教育の一部として認識されてきたために、公共が無料で提供するものといった意識が根強く」(:192)なったことである.

以上を踏まえて, 終章「なぜ日本にだけ〈鑑賞〉という言葉が生まれたのか」では日本の音楽鑑賞教育の功罪がまとめられる.
その要旨は以下のようなものだ.

・「音楽教育における〈鑑賞〉をめぐる動向は、鑑賞教育がクラシック音楽の正典(カノン)に聴衆としてかかわることに収斂されていく様子を表している。」(:200
・「本書で追ってきた〈鑑賞〉の変遷は、〈鑑賞〉が抱え続けてきた「客観性か主観性か」「心か言葉か」という二元論の間を揺れ動いてきた歴史」(:203-204)といえる.
・その一方で, 「日本人はクラシック音楽を「好きではない」「興味がない」とは言わず「わからない」と言う。この点において、世界にも例のないクラシック音楽鑑賞教育は、地域や世代にかかわらず「世界共通ルールとしての鑑賞」の教育を万遍なく浸透させた」(:202)ということもできる.

最後に, 筆者は次のように指摘して論を閉じる.

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…(前略)どのような場でも、どのような音楽すること(ミュージッキング)でも、「聴衆」が〈鑑賞〉に終始すれば、音楽の多様なあり方の可能性を閉じてしまうだけでなく、生み出されうるかも知れないあらゆる関係性の可能性も閉じられてしまうかもしれない。
本書では〈鑑賞〉という語の変遷をたどってきたが、それは、音楽すること(ミュージッキング)にはどのような関係性があり、どのようなかかわり方があるのか、また、そのなかで自分はどのかかわり方を好ましいと感じるのか、ということを考えるということでもあった。(:218

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普段何気なく使っている「鑑賞」という言葉から, こんなにも興味深い歴史と隠された意図, そして政治が次々と暴かれていく.
とても興味深い社会学の一冊だった

2/02/2013

NHK「デザインあ」original soundtrack


コーネリアス NHK「デザインあ」original soundtrack
2013.01.23 / WPCL-11286

まずはCDケース(?)がとてもかわいらしい.

セットリストは「デザインあのテーマ」からスタート.
声を使ったコラージュ, 極上の声あそびで, 一気にコーネリアスワールドに包み込まれる.

挿入歌(嶺川貴子「まるとしかく」や やくしまるえつこ「やじるしソング」, salyu × salyu「カラーマジック」など)を聴くと, TVの画面が次々と思い出される.
それだけ聴覚と視覚とが強く結び付けられているデザインだ.

お気に入りは10曲目「Sound of Composition.
聴いていて, 思わず笑顔になる一枚.

(写真は山形市のイタリアン「IL BLU. 寒鱈のスパゲッティ, 美味しかったです)

NHK「デザインあ」

1/26/2013

el fog Rebuilding Vibes


el fog Rebuilding Vibes
2009.09.16 / FLAU14

滲むVibraphone.
バイブをこんな風に(だけ)使うのを聴くのは はじめて.
決して主導権は取らないものの, 後ろで静かに色を変えていくのが新鮮だ.

El fogベルリン在住のアーティスト, 藤田正嘉によるソロプロジェクト.
本作は彼の二作目となるアルバムだという.

不思議なグラフィックアートを見ているような音楽.

Rebuilding Vibe

1/18/2013

仙フィル 第270回定期演奏会


仙台フィルハーモニー管弦楽団 270回定期演奏会
2013.01.18 / 仙台市青年文化センター・コンサートホール

「変容, 変奏をテーマに一度プログラムを組んでみたかった」

オープニング・トークでそう語ったのは, 今年度より仙フィルのミュージック・パートナーとなった山田和樹である.
ラフマの第18変奏の いったいどこが変奏なのか説明する指揮者は終始にこやかで, 会場は はじめからアットホームな雰囲気に包まれた.

1曲目はブラームス「ハイドンの主題による変奏曲」.
主題を奏でる最初の木管アンサンブルがあまりにも幸せな音で, にんまりしてしまう.
弦楽器の潤った音も心地よい.
その音を導き出すのは, 大きなキャンバスに絵の具を置いていくかのような柔らかい指揮だ.
楽しんで振っているのが分かる棒で, こちらも楽しくなってしまう (演奏会終了後にそうお話ししたら, 「そうなんです, 上手くいってるときは楽しそうなんです」とのお返事. とても気さくな方でした).
ラスト, 回帰したテーマ(弦)もとても柔らかく厚みがあり (ホールの響きもとてもよい), 心地よかった.

2曲目はラフマニノフ「パガニーニの主題による狂詩曲」.
ピアノのヴァディム・ホロデンコが秀逸.
鍵盤を撫でるように弾かれる優しいピアノ.
そこから立ち現れるのは, 手渡しでそっと伝えられるような音だ.
その柔らかい音はオケとも相性抜群だった.
中盤, 12変奏(4分の3拍子)の管楽器のソロとピアノのフレーズが, 揺蕩う感じでとても気持ち良かった.
18変奏のピアノは滲み出てくる優雅さが なんとも上品.
派手さはなくても, じわじわ伝わってくる愛情にしびれる音楽だった.
度重なるカーテンコールの末に弾いてくれたアンコールもそっと優しい音色が印象的だった.

休憩を挟んで最後に演奏されたのはヒンデミット「ウェバーの主題による交響的変容」.
1楽章は対位法を明瞭に聴かせつつも, チャーミングさや おもしろさ(パロディ感)を存分に出して, その対比が面白かった.
2楽章では, さながらjazzのようなtrioが小粋で軽快だった.
Tp, TbTimpのアンサンブルが素晴らしかった.
3楽章ではCl, Bsn, Hr, そしてラストのFlと続く管のsoloがとてもよかった.
4楽章はゴージャスなラストが心に残った.
キラキラした管楽器と, それを浮かび上がらせる厚い弦楽器が迫力満点だった.

仙台市民の熱烈歓迎を受けて終えたデビュー・コンサート.
最後に指揮者が語った「いま幸せでうれしい」といった言葉は, まるで自分のことのように共感できるものだった.
来月にはロシア公演も控えている仙フィル.
今後も楽しみである.


1/14/2013

天のしずく:辰巳芳子 いのちのスープ


映画「天のしずく:辰巳芳子 いのちのスープ」
監督・脚本 河邑厚徳 / 2012

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この映画は、人とものごとを追うようでいて、核心に深意を秘めたものにしましょう。

命題はいつしか、「愛することは生きること」に修まつてゆきました。

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映画に寄せ, 辰巳芳子はパンフレットの最初にこう書く.
映し出されるのは, 丁寧な料理の手しごとや日々の暮らしへ向き合う真摯な姿勢だ.
その姿に, 心をこめて愛することが生きることに繋がるという彼女のメッセージが, 説得力をもって拡がっていくのだった.

ポタージュ・ボン・ファムも, 心臓焼きも, にんじんのポタージュも, 玄米スープも…, どれも本当に美味しそう.

食べることは生きること.
不安な世の中だが, だからこそ, 湯気の向こうに繋がれるべき愛といのちがある.

(写真は帰りにお邪魔した山形市「麺藤田」)

1/06/2013

桃さんの幸せ


映画「桃さんの幸せ」
監督 アン・ホイ / 2011, 中国・香港

家政婦(?)のタオさんと, 主の息子であるロジャーのおはなし.
穏やかな暮らしの大切さ, 変わらない太い根の大切さのようなことを考えさせてくれる.

さりげない終わり方がなんともタオさんらしい映画.