大久保賢 (2016). 黄昏の調べ:現代音楽の行方. 春秋社.
key words:「霧」(ドビュッシー), 「音響」を構成する要素としての「運動」(:54), 「音の雲」の様態 (:184), 「瓶入りの手紙」(:224)
本書は, 「「現代音楽のどうしようもない不人気」を端緒に、そうした音楽のありようを読み解いていこうとするもの」(:2)である.
第1章(芸術の精神からの「現代音楽」の誕生 現代音楽とは何か)では, 現代音楽の作曲家が「芸術家たる彼らが常に独創的であらねばならなかった」(:23)ために, 「人々から愛されることの極めて少ない「孤高の調べ」を書くべく運命づけられていた」(:22-23)ことが述べられる.
また, 本書ではたとえばドビュッシーが「現代」音楽の作曲家として取り上げられるのだが, 現代音楽とクラシック音楽との分かれ目を「調性」の有無によって線引きすることが確認される (:35).
第2章(昨日から今日へ 現代音楽の興亡Ⅰ:第二次大戦まで)では, 「調性からの離脱」と素材の自由化」の二つの事柄に焦点を当てて, この時期の作曲家と作品の特徴がまとめられる
(:38).
前者の作曲家として取り上げられるのはシェーンベルクやドビュッシー(「和声の機能を無効化」した(:52))であり, 後者がバルトークやストラビンスキーだ.
第3章(ファウストゥス博士の仕事場 現代音楽の詩学)では「〈構成〉という営み」(:70)をキーワードとして, 現代音楽の作曲のありようの変化がまとめられる.
第4章(すばらしき新世界 現代音楽の興亡Ⅱ:戦後~六〇年代まで)では, 「響き/テクスチュア」, 「ミュージック・コンクレート/電子音楽」, 「引用/コラージュ」, 「反復技法」などをキーワードにこの時期の音楽についてまとめられる.
シェーンベルクのもとで学んでいた「ケージが「偶然性」に到った経緯」(:99)などもあわせて紹介される.
(ライヒらのミニマルミュージックに対して「反復音楽」や「反復技法」といった言葉を用いた方が適切であるとする主張(:117)は面白かった)
第5章(聴けるものと聴けないもの 現代音楽の感性学)では, 「聴取の解釈学」(=「作品」という枠組みの中での音楽の理解, 従来の聴き方)と「聴取の詩学」(=「作品」という枠組みからの創造的自由, 聴くことによって芸術的生産が行なわれる)(:141-144)をキーワードに論が展開される.
そして, オルテガ(やアンセルメ)の言葉を引いて「聴き手は「内」を顧みる暇などなく、ひたすら「外」の音を凝視することになる」(オルテガ, アンセルメ)(:130)新しい音楽においては, 「新しい」聴き方が生まれ, それによって現代音楽やクラシックは批判的に受け取られることになることが指摘される
(:148).
第6章(宴のあと 現代音楽の興亡Ⅲ:七〇年代~世紀末まで)では, 「全盛期を過ぎた現代音楽の姿」(:同)がレビューされる.
この時期に見られる「単純さへの回帰」(:155)について筆者は, 「現代音楽、すなわち、過去を振り捨てて常に前へ前へと進んできた音楽が、ある面で過去への回帰を示したという点が肝心なのだ」(:156)と指摘する.
さらに, 複雑さを希求するファーニホウなどの作品(:160)や引用やコラージュのもつ面白さを引き出したハンス・ツェンダーなどの作品
(:162-163), 「美しきノイズ」を追い求めたノーノらの作品 (:168), 音響解析による響きの構成を拠り所とする(:174)グリゼーらスペクトル楽派の作品が紹介される.
第7章(非人間的な、あまりに非人間的な 現代音楽演奏の現象学)では, 演奏不可能(なほど難解・超人的)な音楽を「それらしく弾くこと」の意味が検討される.
そして, 「演奏者がそれまでにクラシック音楽で習得した(中略)身体の運動パターンでは対応でき」ず, 「新しい作品を手がけるたびに、その都度(中略)、その音のありようをきちんと読み取り、身体に覚えこまさなければならない」(:181)といった難しさや, 「調性音楽とは異なり、現代音楽の楽譜ではその解読コードが読み手の間で必ずしも共有されているとは限らない」(:186)といた難しさ(「「楽譜を現実の音にする」ことは、多かれ少なかれ、作曲者が「書かなかったことを付け加える」ことを伴うもの」(:同)である)が現代音楽にはあることが指摘される.
また, 現代音楽における演奏者と作曲家との協同作業についても論じられる.
最後の第8章(芸術の些か耐えられない重さ 現代音楽の行方)では, 現代音楽の今後について述べられる.
著者は, 「「新しさ」や「独創性」を何よりも重んじ、その追求に明け暮れた現代音楽だが、そうした音楽が「現代」を標榜できる時代はすでに終わった」(:202)とする.
それと同時に, 「七〇年代以降の現代音楽」には, 「「業界」の中で話題となり、あるいは、多少はその外でも注目を浴びた作品はあれども、そこには先立つ時期の作品ほどの衝撃はない」(:205)ことを指摘する.
これらの状況を整理したのちに, 筆者は「「現代音楽」を脱して「現代の音楽」へと向かうには「芸術であることの程度を少しばかり下げる(言い換えれば、縛りを緩める)こと」(:208)を提案するのだった.
そして, 作曲家は「受け手のことをほとんど顧みないような音楽を書き、やがて現れるはずの真の理解者とやらに向けた「瓶入りの手紙」などにするのではなく、眼前の人たちに向けてボールを投げかけ、その結果に向き合うことが大切」だ(:224)と指摘するのだった.
現代音楽の流れを大きくつかむには良書である.
あとがきで筆者自身も指摘するように, 日本の現代音楽についても次作が望まれる.
(昨日から酒田に来ています. 写真はお昼に「day bay day」(以前みつばちカフェがあった場所)でいただいた季節のおまかせランチ. 揚げたてのコロッケと酒粕感たっぷりの厚揚げと芋がらの煮物が最高でした. そしてお味噌汁が美味しかった!
もうひとつの写真は酒田に来たらやっぱり買ってしまう, 清水製パンのフルーツサンド. 今日は買えました!
昨日はル・モンドで洋食屋さんのナポリタン&ハンバーグをいただいたのですが, 酒田は美味しいお店がたくさんあって嬉しくなります)