2013.03.25 / 仙台市イズミティ21 小ホール
イズミティで開催されたJFC(日本作曲家協議会)東北の演奏会.
さまざまな編成, スタイルの曲があったが, 東北でいわゆる「現代音楽」というジャンルの演奏会を開くのは
やはり難しいのかなぁ, と思ってしまった.
仙台でもなお, と言ってもいいのかもしれない. お客さんもパラパラとしか入っておらず, 少し寂しい演奏会だった.
しかし…, この寂しさは聴衆の問題(だけ)ではない.
今日の演奏会では作曲者自身のスタンスの問題が多くあったのではないか, と思う. たとえば, 難しく書いているが, あの展開とエンディングならもっとシンプルに書けたのではと思ってしまう作品だったり, 混沌として近寄りがたい雰囲気だけがあって, 聴き手側に「?」が全然飛ばない作品だったり….
音楽的な内容を問わずに, かつて渡辺裕がそうよんだ「軽やかな聴取」のような聴き方(あるいは, 無料のコンサートだということから来るレディネスの不足をも考えるのなら, 今井晋がいう「軽薄な聴取」のような聴き方)を無警告に許すのならば, そんな聴き方をされる「現代音楽」には, いったいどんな意味があるのか…, と, そんなことを図らずも考えてしまった
(聴取をめぐる概論については仲山ひふみの「ポスト・ケージ主義」をめぐるメタ・ポレミックス(ユリイカ2012年10月号)に詳しい).
一方, 軽やかな聴取, 軽薄な聴取だと言って, 最近の聴衆は変わったと割り切って済ませてしまうのは簡単なわけだが, それでは作り手側はしっかりとした聴取に耐えうる作品を作っているのか…?
作りたいのか…?
もっと聴き手が自分自身で動く聴かせ方を求める, もっと言えばその価値がある曲を書くべきなのではないか…. そんなことも思った一日だった.
ユリイカ2012年10月号 特集=ジョン・ケージ_鳴り続ける〈音) 生誕100年/没後20年