中村文則 (2009). 何もかも憂鬱な夜に. 集英社.
key word:目覚めよと呼ぶ声がきこえ
駄目になってしまいたいという破滅の願望を抱える登場人物たちは, 自分に似つかわしくないこの日常生活から離れ, 本来の相応しい(破滅した)自分になりたいと思いながら生きている.
その葛藤を, 中村文則は驚くほどリアルに描き出す. こんなにも正統派に, 文体だって言葉だって, 小説家とよばれる人たちがこれまで使い続けてきた道具だけで, だ.
死刑囚である少年・山井が, 刑務官である僕に殺人の真相を告白する場面がある.
被害者の自宅で人をめった刺しにしたあと山井は, 自分が殺めた人物がついさっきまで使っていた食卓の椅子のフリル, 水色の座布団、冷蔵庫のマグネット…, それら日常の記録を見た(見てしまった)ことを感情露に告白する. その描写は, 山井の行動だけに注目してしまうあまり読み手が忘れていた景色を瞬時に立ち上がらせ, 日常のなかで起きてしまった事件のリアリティを強固なものにする.
それは小説ならではの書き方であるのに, 彼の告白を聴いて読み手は, あぁこれはお話なんかじゃない, すぐそこの日常で起きた出来事なんだ…, とドキっとするのだ.
鮮やかに, まるで読み手自身の感覚であるかのように.
やがて, 自分が控訴しない理由を語りだす山井.
会話だけで, ドラマチックに情景が浮かび上がる場面だ.
この臨場感はやはりこの作家ならではだろう.
小説のラスト, 山井は主人公である僕に手紙を書き, バッハの「目覚めよと呼ぶ声がきこえ」に感銘を受けた, と綴る.
何もかも憂鬱な夜に, 眠られない夜を過ごしている山井に, 主人公が薦めたその音楽は光を当てる. それは, 色んな人の人生の後ろでいつも流れているような気がする, と山井が語る声だ.
あなかだ兄だったらよかった, と手紙の最後で山井はいう.
なんとも静かで余韻が残る終わり方だった. 何もかも憂鬱な夜に
何もかも憂鬱な夜に (集英社文庫)