高橋哲哉 (2005). 靖国問題. 筑摩書房.
key words:感情, 歴史認識, 宗教, 文化
第一章「感情の問題:追悼と顕彰のあいだ」では, 靖国問題の根底にあるのが「戦死した家族が靖国神社に合祀されるのを喜び肯定する遺族感情と、それを悲しみ拒否する遺族感情とのあいだの深刻な断絶であり、またそれぞれの側に共感する人々のあいだに存在する感情的断絶であるとも言え」(:18)るものであり, ゆえにこの問題が哲学の対象となりうることが述べられる.
肉親を失った感情がなぜ「喜び肯定する」感情になるのか.
そこには, 我が子を戦場で失って悲しいはずの母親に「お国のために死ぬこと」や「お天子様のために」息子を捧げることを聖なる行為と信じさせる(:29)ことによって, 遺族感情を「悲しみから喜びへ」「一八〇度逆のものに」変える仕組み(:43)があることを高橋は指摘する (筆者はこれを感情の錬金術(:44)とよぶ).
そして, 靖国神社は「決して戦没者の「追悼」施設ではなく、「顕彰」施設であると言わなければならない」(:58)というのだった.
第二章「歴史認識の問題:戦争責任論の向こうへ」では, 中国や韓国政府が問題にしているのは靖国神社そのものではなく, 「戦犯が合祀されていることが明らかになっている靖国神社に、日本の首相が公然と参拝するという現在の政治行為に向けられている」(:71)ことが確認される.
それと同時に, 「戦争責任論」の視点からこの問題を論じる場合, すべてを聖戦として扱う靖国の考え方により, 満州事変以前の無数の戦争が見落とされる危険性も指摘される
(:80).
第三章「宗教の問題:神社非宗教の陥穽」では, 分祀に応じられない靖国神社のスタンスがまとめられる.
つまりそれは,「要するに、靖国神社の論理によれば、合祀はもっぱら「天皇の意志」により行われたものであるから、いったん合祀されたものは、「A級戦犯」であろうと、旧植民地出身者であろうと、誰であろうと、遺族が望んでも決して取り下げることはできない」(:99-100)ということである.
そして, 靖国神社を「非宗教化」することは不可能であることが指摘される.
第四章「文化の問題:死者と生者のポリティクス」では, 生者と死者との関係を日本文化の問題として扱った江藤淳の「生者の視線と死者の視線」をテキストに検討される.
そのうえで,「戦争の死者から敵側の戦死者を排除し、さらに自国の戦死者から一般民間人の戦死者を排除した後の、日本の軍人軍属(および日本軍の協力者)の戦死者との関係」が, 「江藤の言うような「文化」によってではなく、まさに国家の政治的意思によってつくられたものであるかぎり、靖国問題への文化論的アプローチは原理的限界をもっていると言わざるをえない」(:176)ことが指摘される.
第五章「国立追悼施設の問題:問われるべきは何か」では, 歴史認識を曖昧にしたまま「無宗教の国立戦没者追悼施設」を新たに建設する(:180)ことの危険性が指摘される.
そして, たとえば「国際平和のための活動」の名のもとに戦争が日本国家によって正当化されていくのであれば
(:194-195), 新たな追悼施設も「第二の靖国」と化すおそれが強い(:206)ことが加えて指摘される.
さらに, 「非戦の意志と戦争責任を明治した国立追悼施設が、真に戦争との回路を断つことができるためには、日本の場合、国家が戦争責任をきちんと果たし、憲法九条を現実化して、実質的に軍事力を廃棄する必要がある」(:220)ことが再三述べられるのだった.
最後の方は, まさにいま問題となっている事柄である.
10年以上前に書かれた問題が, 現実感を帯びつつある.
改めて戦争と平和について考えるために, いまこそ読み直したい本なのかもしれな
い.
(シャインマスカットより断然ピオーネ派)
(上の写真は移転オープンした上山市・あべくん珈琲!)