10/05/2017

山形国際ドキュメンタリー映画祭2017 開会式


山形国際ドキュメンタリー映画祭2017 開会式
2017.10.05, 1715start / 山形市中央公民館ホール(az

今年のドキュメンタリー映画祭.
開会式は古い山形を映したモノクロ写真のスライドからスタート.
スライドには「この街にはオーケストラがある」とクレジットが現れ, 続いて山形交響楽団のオープニング演奏となった.
指揮は飯森さん, 弦は8.
(反響板がなく, 響かないのが残念…)

モーツァルト「フィガロの結婚序曲」, バルトーク「ルーマニア民族舞曲」, シベリウス「アンダンテ・フェスティーヴォ」(弦楽合奏), ヨハン・シュトラウス2世「オペレッタ こうもり序曲」と演奏される.
途中, 本日のプログラムは困難な時代を生き抜いた作曲家の曲で構成されていると飯森さんから説明がある.
オープニングに相応しい爽やかな演奏だった.

続いて, 荒井幸博さんの司会によってセレモニーがスタート.
1989年にアジア初のドキュメンタリー映画祭としてスタートしたこの映画祭も, 今年で15回目になるという.
インターナショナルコンペティションとアジア千波万波に, 128か国から179本が寄せられたというから改めて驚かされる.
招待作品の監督や審査員の紹介を経て開会式は終わり, この日は続いて松本俊夫監督の短編3本が上映された.

1本目は「西陣」(16ミリフィルム).
三善晃の音楽が添えられたモノクロの映像 (なぜこの音楽なのだろうか…. 気になって音にばかり神経がいってしまう).
機織の機械の様子を面白いアングルで撮っていく.
今みても新しい見せ方だ.
その後ろで, 変わりゆく時代のなか, 派手な着物を作る人々の苦しい生活を映していくのだった.
映写機の音が心地よい.

2本目は「銀輪」(35ミリフィルム).
1956年の作品にのちに新たに色を付けたものだという.
自転車の部品が次々と宙を舞う現代アートのような実験的映像.
ただ…, 正直10分間観ているのが辛い作品だった.

東北芸術工科大学・加藤到先生の解説を挟んで, 3本目は「つぶれかかった右眼のために」.
松木俊夫はドキュメンタリーとアヴァンギャルドを合わせたネオドキュメンタリズムを提唱した監督なのだという.
3面マルチプロジェクション作品であるこの作品は, 現代的な表現で1968年の社会状況を見せるのだが, バックに草月アートセンターがいると聞いて納得した.
3台の16ミリフィルムのプロジェクターから投影される映像で構成される (左右に1面ずつと, ちょうどその2面に重なるように真ん中にさらに1面が配置・投影される), とてもスリリングな作品だった.
3面それぞれで映像も音も(全く別個に)同時進行する作品(切り貼りして再考するDJのような仕事だなと思った. 50年前の当時はとても斬新だったのだろう, 観る方も大変な体力を消耗する作品だった.

19時半過ぎに上映は終了.
明日から映画祭コンペティション部門が開催される.
(佐々木敦さんの勉強会(20138月@仙台ゼロベース)で紹介されて以来気になっていたフレデリック・ワイズマンの作品も上映されます!)


9/24/2017

山崎ナオコーラ 母ではなくて、親になる

 

山崎ナオコーラ (2017). 母ではなくて、親になる. 河出書房新社.

key words:「赤ん坊は灯りのようだ。周りを照らす」(14), 「ああ、ここは美しい世界なのだなあ」(:169

web河出に掲載されたエッセイをまとめた一冊.

子育てをするにあたって筆者が決めたことは, タイトル通り「母ではなくて、親になろう」(:12)ということ.
だから筆者は, 行政のつくるパンフレットやポスターにある「パパはママの話を聞いてあげましょう」「パパは子供だけでなくママも大事にしましょう」などといった言葉にも違和感を訴え (111), 「フェミニンな男性を肯定したい」(:173)ともいう.
子育ての本は数多く読んだが, 一番しっくり来て共感できる本だった.

印象的だったのは, 未来よりも過去よりも今が大事だと気付けたという部分 (28「思い出作らず」:238-244).
目の前で笑っていてかわいい子どもを必死になってカメラで撮り (子どもと対面している自分の顔をカメラで隠しながら), 未来のために一番輝いている「今」を犠牲にしていることに違和を感じた経験から, 筆者はこう述べる.

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子どもといると、時間というものに意識的になることができて面白い。
未来はそんなに重要ではない、今に希望を持たせるための概念だ、と思い始めてから、より未来を良いものだと感じられるようになった気もする。(:244

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子どもと過ごし, 子どもの今を からだいっぱいに感じられる時間は案外少ない (と思う).
だからこそ, 今を楽しみ, 今を大事にしなければならないなぁ, , そう感じさせてくれる一冊だった.

(上の写真は喜多方・食堂「つきとおひさま」の旬のおかず定食. 下の写真は会津・アドリア北出丸カフェの秋のキャラメルクレープ (2種のジェラートと安納芋クリーム). 会津,  外のテラス席は金木犀のいい香り~!)


9/23/2017

GAGAKU展


平成29年度 山形県立博物館プライム企画展
GAGAKU:やまがたに息づく宮廷文化
2017.09.23 12.03 / 山形県立博物館

本日より開催される「GAGAKU」展.
京都から最上川舟運により伝わったとされる山形の雅楽についての展示は, 山形県初になるという.

最初に記念講演(「江戸時代の雅楽と皇室祭祀」)を聴く.
講師は元宮内庁式部職楽部楽長の安倍季昌氏 (大化の改新のころより続いている, 安倍家29代当主とのこと).

講演会前半は, 雅楽研究家の荒川和人氏や地元演奏家のみなさんを交えての楽器紹介や, 歴史についての講義.
明治維新まで一般人は演奏することができなかった雅楽が唱歌で伝承されてきたことなどが紹介される.

後半は皇室の祭祀について, 賢所(かしこどころ)の見取り図を資料に紹介される.
また, 東遊びのDVDも鑑賞した.

講演後, 「指揮者役は誰になるのか?」との客席からの質問に対して, 「指揮者役はおらず, 全員一致で演奏される. うまくいったときは自分の音も吸い込まれるような感じになる」と安倍氏が答えられたのが印象的だった.

講演会後, 企画展示室へ.

第一部「雅楽の世界とやまがた」では, 尾花沢雅楽(念通寺雅楽)において用いられてきた楽譜や楽器が紹介される.

第二部「尾花沢雅楽と京都方楽家・安倍家」では, 3つの雅楽書(書写本)が初公開・展示される.
いずれも地方に伝わること自体が極めて稀なものであるという.
江戸時代後期のものらしいが, とても大事に保存されてきたことが見てわかる.
それだけ当時の尾花沢山久(やまきゅう)鈴木家にとって雅楽は大切なものだったのだろう.
この他にも, 口伝によって伝えられる雅楽の伝授について, 弟子が修得したのち師匠に対して口外しないことを誓約する「禁口誓約書」など, 珍しい資料が多数展示されていた.

第三部「やまがたに根づいた雅楽」では, 天童の林家舞楽や, 江戸時代・庄内藩の雅楽への取り組みなどが紹介された.

展示物はひとつの展示室に収まる量であるが, 興味深い資料を多数目にすることができた.


9/17/2017

高橋哲也 靖国問題


高橋哲哉 (2005). 靖国問題. 筑摩書房.

key words:感情, 歴史認識, 宗教, 文化

第一章「感情の問題:追悼と顕彰のあいだ」では, 靖国問題の根底にあるのが「戦死した家族が靖国神社に合祀されるのを喜び肯定する遺族感情と、それを悲しみ拒否する遺族感情とのあいだの深刻な断絶であり、またそれぞれの側に共感する人々のあいだに存在する感情的断絶であるとも言え」(:18)るものであり, ゆえにこの問題が哲学の対象となりうることが述べられる.
肉親を失った感情がなぜ「喜び肯定する」感情になるのか.
そこには, 我が子を戦場で失って悲しいはずの母親に「お国のために死ぬこと」や「お天子様のために」息子を捧げることを聖なる行為と信じさせる(:29)ことによって, 遺族感情を「悲しみから喜びへ」「一八〇度逆のものに」変える仕組み(:43)があることを高橋は指摘する (筆者はこれを感情の錬金術(:44)とよぶ).
そして, 靖国神社は「決して戦没者の「追悼」施設ではなく、「顕彰」施設であると言わなければならない」(:58)というのだった.

第二章「歴史認識の問題:戦争責任論の向こうへ」では, 中国や韓国政府が問題にしているのは靖国神社そのものではなく, 「戦犯が合祀されていることが明らかになっている靖国神社に、日本の首相が公然と参拝するという現在の政治行為に向けられている」(:71)ことが確認される.
それと同時に, 「戦争責任論」の視点からこの問題を論じる場合, すべてを聖戦として扱う靖国の考え方により, 満州事変以前の無数の戦争が見落とされる危険性も指摘される (80).

第三章「宗教の問題:神社非宗教の陥穽」では, 分祀に応じられない靖国神社のスタンスがまとめられる.
つまりそれは,「要するに、靖国神社の論理によれば、合祀はもっぱら「天皇の意志」により行われたものであるから、いったん合祀されたものは、「A級戦犯」であろうと、旧植民地出身者であろうと、誰であろうと、遺族が望んでも決して取り下げることはできない」(:99-100)ということである.
そして, 靖国神社を「非宗教化」することは不可能であることが指摘される.

第四章「文化の問題:死者と生者のポリティクス」では, 生者と死者との関係を日本文化の問題として扱った江藤淳の「生者の視線と死者の視線」をテキストに検討される.
そのうえで,「戦争の死者から敵側の戦死者を排除し、さらに自国の戦死者から一般民間人の戦死者を排除した後の、日本の軍人軍属(および日本軍の協力者)の戦死者との関係」が, 「江藤の言うような「文化」によってではなく、まさに国家の政治的意思によってつくられたものであるかぎり、靖国問題への文化論的アプローチは原理的限界をもっていると言わざるをえない」(:176)ことが指摘される.

第五章「国立追悼施設の問題:問われるべきは何か」では, 歴史認識を曖昧にしたまま「無宗教の国立戦没者追悼施設」を新たに建設する(:180)ことの危険性が指摘される.
そして, たとえば「国際平和のための活動」の名のもとに戦争が日本国家によって正当化されていくのであれば (194-195), 新たな追悼施設も「第二の靖国」と化すおそれが強い(:206)ことが加えて指摘される.
さらに, 「非戦の意志と戦争責任を明治した国立追悼施設が、真に戦争との回路を断つことができるためには、日本の場合、国家が戦争責任をきちんと果たし、憲法九条を現実化して、実質的に軍事力を廃棄する必要がある」(:220)ことが再三述べられるのだった.

最後の方は, まさにいま問題となっている事柄である.
10年以上前に書かれた問題が, 現実感を帯びつつある.
改めて戦争と平和について考えるために, いまこそ読み直したい本なのかもしれな
.


(シャインマスカットより断然ピオーネ派)
(上の写真は移転オープンした上山市・あべくん珈琲!)

8/27/2017

髙橋コレクション・マインドフルネス2017


髙橋コレクション・マインドフルネス2017:日本の現代アートがここにある!
2017.07.22 - 08.27 / 山形美術館

企画展最終日, 山美へ.

展示は草間彌生の可愛らしいスカルプチャー(「ハーイ、コンニチワ! ヤヨイちゃん」と「ハーイ、コンニチワ! ポチ」)からスタート.
1展示室には草間彌生や奈良美智らの作品が並ぶ.
草間彌生の作品は歳を重ねてからの方がインパクトがあって, そのバイタリティーに改めて驚かされた.

2展示室では宙に浮かぶ村上隆の「Mr. DOB」がまず目に入る.
会田誠や山口晃らの大きな作品が並ぶなか, 展示室奥の壁一面に飾られた殊さら巨大な鴻池朋子の「Knifier Life」(剣の洪水から子どもを守る(?)6本脚のオオカミらを描いたモノクロ作品)が印象的だった.
はじめて観た町田久美のシニカルな絵もcuteだった.

3展示室(2階)には立体から映像, 写真, パッと見はなんだかわからないものまで, 多種多様な作品が並ぶ.
まさにアートの遊園地.
チームラボの若冲をもとにした映像作品「世界は統合されつつ、分割もされ、繰り返しつつ、いつも違う」や, 畠山直哉の雨粒を纏った窓越しの風景を切り取った写真群も印象的だった.

山形でこれだけの(いわゆる)現代アート作品を目にするのははじめてのことではないだろうか.
そのコレクション群の豊富さに圧倒されると同時に, やはりアートは楽しいなぁと思える企画展だった.