三島邦弘 (2014). 失われた感覚を求めて:地方で出版社をするということ. 朝日新聞出版.
key words:出版社, 編集者, 身体感覚
ミシマ社の本社がある東京・自由が丘とは全くの別世界, 京都府の城陽(五里五里の里)にオープンした「ミシマ社城陽オフィス」.
本書の前半ではこの城陽オフィスをめぐる様々な出来事(デッチ(住み込みのインターン)の募集から「ミシマ社の本屋さん」の開店, 「関西仕掛け屋ジュニア」との出会い, 店番をすることで初めて経験した「お客さん」との出会い…, など)が綴られる.
その場面がふわっと想像できるような, 面白い話が続く.
だが, 城陽オフィスはスタートから1年半弱でその活動に終止符を打つことになる.
いいことばかりに思えた城陽プロジェクトだったが, 「流れていると思っていた流れは、表面でしかなかった」(:64)のである (「ひとりのお客さんも来ない日々。来ない電車。著者の方との打ち合わせをたった一人ともおこなえないで終わる一週間。調べものがあっても街中へ出るのに一時間……。自由が丘メンバーとの情報共有の困難さ。切れる音声、切れるスカイプ映像。切れるぼく」(:同)).
城陽プロジェクト終了の一番の理由は, 「現場に、最前線に、立っていない」(:158)ことが生むストレスだった, と三島は振り返る.
そうして三島は京都市内へとオフィスを移す.
本書の後半では, 再び回り始めた編集者としての仕事(「寺子屋ミシマ社」のはなしやメルマガ「みんなのミシマガジン」の創刊, 「シリーズ 22世紀を生きる」など)が綴られる.
------
読み手の想像力に結びついたとき、たった一文字であってもとてつもない広大な世界を与えることだってできる。そういう可能性をもった世界のなかにぼくたち(本の仕事にかかわる人はもちろん、本を読むすべての人たち)は身をおいている。(:2)
------
「はじめに」でこういっていた三島.
本書の終わりではこうも続ける.
------
編集やメディアの役割は、よく誤解されがちなのだが、「発信」ではない。くり返すが、あくまでも「媒介」である。自分発信に走ればかえって主体は遠ざかる。自力で全てを動かしてやろう、そういう自意識ほど自然からはるか遠い行為はない。(:257)
身体が真っ白になる。能楽におけるワキが、あるいは編集者が、そうであるように、そこにいながら、そこにいない。そして、そこにいないが、そこにいる。このような身体性を刻々と生成しつづけたい――。(:258-259)
------
仕事への愛が伝わってくる一冊だ.