米原万里 (2008). 心臓に毛が生えている理由. 角川学芸出版.
key word:文化を跨ぐ
ロシア語通訳者であった米原万里のエッセイ集.
以前ふと目にして気になっていた文章を探していたのだが, その文章が収められていたのがこの本だった.
そのエッセイは「○×モードの言語中枢」(:106-109)という, プラハから帰ってきた日本の中学校で, 年号を答えさせるものや○×方式での回答のみ求められる歴史のテストに「正直言って、嘘じゃないか、冗談じゃないかと思った」(:107)というものだった.
その続編となるエッセイ「脳が羅列モードの理由」(:134-137)と合わせて, 多文化で育った筆者ならではの視点が新鮮で面白い.
その他にも, 「餌と料理を画する一線」(:81-84)というエッセイでは, 陶磁器ではなくプラスチックの食器が多く用いられるようになった状況を「日常的に食事のプロセスを楽しむことなどに一片の価値も見いだせない効率一辺倒な、快楽を無駄としか解釈できない精神の貧しさが、未だに日本人の食生活の、いや生き方の根底にあるのではないか。まるで発作のようにどこか落ち着きのないグルメブームの背後にも、そういうせかせかした貧乏根性が見え隠れしてならない。」(:84)と喝破する.
海外での暮らしが長かった筆者ならではの視点で, 痛快にまとめてくれる.
また, ロシア語ではあまたある褒め言葉が日本では「スッバラシイー」の一言で全て事足りて便利だといったチェリスト・ロストロポーヴィッチに触れたエッセイ「素晴らしい!」(:122-125)では, 「何しろ、『枕草子』の頃から、心を揺さぶられたおりの多様なニュアンスを、「あはれ」の一言で括ってきた伝統が、わたしたちの言語中枢に息づいている。若い御嬢さんたちが、好ましいモノすべてを、「カワイイ」の一言で片づけているのも、清少納言の延長線上で捉えれば、眉ひそめるのも躊躇われてくる。」(:124-125)という.
なるほど, 言われてみれば納得である.
エッセイの話題は多岐にわたるが, どれも愉快痛快, 面白い文章ばかりである (ちなみに本のタイトルは, 小さな差異が気になって仕方ないタイプの人は同時通訳という職業には向かない, 同時通釈者の心臓は剛毛に覆われている(省略して構わない言い回しはすっぱりと切り捨てていい)と書く同名のエッセイ(:126-129)から来ている).
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